赤い人「インデイィアン」最後の戦士達
ヨーロッパから渡った白人達がこれほどインディアンに対してむごい仕打ちをはじめたのは何時からなのだろう。独立以前には結構良い関係の時期もあったようだが、移住した白人にとっても東部インディアンは農耕、医学その他の事でも学ぶことは多く大いに助かった事と思います。毛皮猟師などはインディアンと結婚した者も多くあったようです。しかし最後までインディアンを人間、友人、として認めたのはクエーカー教の人たちだけのようです。ジョン・フォード監督の「シャイアン」の中にも学校の先生で子供達と運命をともにするクエーカーの女性がおられましたね。しかし丁度西部劇の時代が一番迫害された時期でもあります。このなかで勇敢に戦った戦士達とその運命を追ってみましょう。
私の尊敬している「西部劇」までのアメリカ合衆国誕生当時の先住民と指導者 @
![]() 「われわれから大地を奪った者こそ呪われよ。われわれの先祖は墓の中から、われわれが奴隷の身分に身を落としてしまったこと、そして卑怯者となってしまったことを非難している。死者たちの嘆き声がひゅうひゅうと音をたてて吹きすさぶ風の中から聞こえてくる。その涙はうめき悲しむ大空から落ちてくる。白人どもこそほろびうせよ」 ★1811年チョクトー族協議会で★ 「我々には、我が祖国を我が古来の独立を守るだけの勇気も無いのか、過去は自問し自答する。ピークォート族は今いずこにありや?ナガランセット族は、モヒカン族は、ポカノケット族は、又かって強力だった我が民族の諸部族は今いずこにありや?彼らは白人の貧欲と弾圧の前に消え失せた。さながら夏の太陽に照らされた雪のように。汝らチョクトー族、チカソー族の未来もかくあらん。我々が共通の敵に対して共通の一つの大義の為に団結しないならば、我が民族の絶滅は近い。さあ一身一体となって、最後の一兵まで、我が祖国を我が自由を我が先祖の墓を守ろうではないか」 |
テクムシ[シューティング・スター]ショーニー族族長 西部劇の時代のアメリカ・インデイアンの事を書くと言うことについてどうしてもその前に書かねばならぬ人。それがこの人です。1768年生まれであるから最後の戦士ではなく最初の戦士と言う人である。この人の事を書くにはページも私の知識も少なすぎるのですが、西部劇からは遠い独立戦争まで遡らなければなりません。名前のテクムシとは「待ち伏せしている豹」という意味がヨーロッパ化したものです。テクムシ日本人にあてはめれば坂本龍馬、この人を数倍スケールを大きくした人といえばよいのでしょうか、実父が協定違反の白人開拓者に交渉に行き射殺され族長ブラックフィッシュの養子となります。ここで初期の白人西部開拓者のダニエルー・ブーンがショーニー族の捕虜となりブーンの森での仕事ぶりを気に入った族長は彼も養子にします。不思議な縁ですがテクムシとブーンは義兄弟になったのですがブーンはブラックフィッシュがケンタッキーのブーンズボローの襲撃を計画している事を知り逃亡ブーンズボロー砦に知らせ砦を救うことになります。ここからは話が長くなることとスケールの大きさに私の筆では著すことが出来ませんので時代を追って箇条書きにさせていただきます。 1)理想の大きさ 彼の構想ではアメリカ独立戦争を利用しイギリス軍に味方をしアメリカが少しでも西へ来ることをくい止めインデアン連合をつくり多分実現は不可能だったかもしれないが東にアメリカ合衆国、西にアメリカ・インディアン共和国をつくることであった。かれの人物の大きさは大敵である後の大統領ウイリアム・ヘンリー・ハリソンでさえテクムシのことを「時折生まれ出て革命を起こし、既成の秩序を覆してしまう稀に見る天才達の一人」と認めていた。 2)知識と教養と恋 何度かのアメリカとの戦争で西へ西へと追われたショーニー族だがテクムシは自分が少年時代を過ごしたオハイオのチリコテででジェームス・ガロウェイ一家と出会う。ガロウェイもテクムシを気に入り大切にする。テクムシは立派な英語が使えたが白人政治家の前では使わなかった。ガロウェイはこの時代の辺境開拓者には珍しく300冊の蔵書がありテクムシは此の家の娘レベッカの協力もあって300冊を読破そして彼女と恋仲となり結婚まで進んだが彼女の条件「白人となり白人として生活する事」の条件がのめずインディアナにかえり独身をとうした。 3)大指導者へ 白人とのトラブル、戦闘で父、兄を失ったテクムシだが弟の一人が疫病から奇跡的に助かった後病気の中での高熱の時に見た夢からさとり有名な「予言者」となり大いに兄を助けることとなるウイリアム・ハリソンは二人に恥をかかそうと「彼が本当の予言者なら頼んでみろ。太陽を止め、月の進路を変え、川の流れをとめ、死人をよみがえらせてみろ」とインディアンに言った。これを聞いた2人は喜んだ知識の一つ1806年6月16日が皆既日食があることを知っていたテクムシはその日にグリーンヴィルにインディアンの大集会を行い集まったインディアンの前で「夜となれ」と言えば夜となり「再び昼となれ」と言うと昼になった。このことでテクムシの名はますます有名となった。テクムシはインディアンを一つにまとめるための遊説の為にフロリダからミズーリまで旅をする。その内に滅ぼされた種族の話をいれている。マサチュセッツのナラガンセット族の通称フィリップ王と呼ばれていた族長もインディアン連合をとなえ一時は勝利しニューイングランドの植民地男性の六分の一を殺害した。がだんだんと負け戦となり族長は部下の裏切りもあったが沼地に追いつめられ射殺された。オタワ族の族長ポンティアック彼も勇敢で雄弁家でもあった。彼の陣営に集まった内にショーニー族もいた。1763年にはインディアン地域にあった12の砦のうち8つの砦を落とし何百という開拓者を殺した。がイギリスの策略に敗れる。このような話を演説の内にいれた。彼の演説を聞こうと多いときは5000人ものインディアンが集まった。サム・ディル将軍は「言葉は彼の唇から雨霰のようにこぼれ落ちた。彼の目は超自然的な輝きに燃え、全身は激情で打ち震えた。彼の声は群衆の上に響き渡り、今は低く沈んで音楽的なささやきになったかと思うと、次には最高音まで高まり、その言葉を雷電のように浴びせた」と伝えている。 4)いくつかの戦争と終末 1810年ハリソン知事と第一回の会合を持ったが成果も無く第二回は1811年再び会合この時も物別れに終わりハリソンはテクムシの留守に戦闘をしかけ戦いは引き分けだったがハリソンはインディアンファイターとして名をあげ1840年に大統領となる。この時に米英戦争が始まりテクムシはイギリス軍につくイギリスのアイザック・ブロック将軍とともに1000名の兵士でデトロイドを落とした。そして敵の捕虜を手厚く取り扱った。しかし友人のブロック将軍が戦死後任のプロクター大佐は人格者では無くデトロイド近くの戦闘でアメリカ軍と戦い大勝利した。そしてアメリカ人捕虜の虐殺が始まったが止めることが出来ずテクムシが駆けつけ「ここに男はいないのか」の一声でたちまち虐殺は収まった。そして小心な司令官プロクターの作戦ミスからだんだんとおされ、1813年テームズ川の戦闘の前に「我々はイギリス軍に従うがこの戦闘から間違いなく私は戻ることは無いだろう」いい、そして前線から逃亡したプロクターに変わりイギリスとの連合軍の総司令官として獅子奮迅の戦いのなか夕刻に近距離からの狙撃にあい死亡した。しかし彼の死体が回収されなかったためその後長い年月の間、偉大なショーニーの首長は生きていると噂された。この後は森林インディアンは次々と敗れていくのです。 |
赤い人「インデイィアン」平原インディアン最後の戦士 A
開拓民がオレゴンに入植を始めたのは1843年からであるがこの年は1000人、1844年は4000人、1845年には5000人に達し大陸横断鉄道が開通した1869年までには数十万人の人たちがオレゴン街道を西へと幌馬車で移動した。昔テレビ西部劇でワード・ボンドが隊長でこの物語がありましたね。「はるかなるオレゴンの緑したたる牧場」という歌詞だつたと思いますが、ルートは2つ1つはスー族の領地を横切るオレゴン街道そしてもう1つはシャイアン族の領地を抜けるサンタフェ街道があります。平原インディアンのスー、シャイアンと白人の対立はこの数字を見ると起きるべくして起きたともいえるようです。
| シッテング・ブル 「インディアンは条約を破ったが、では白人がいつ条約を尊重したというのか?そんなことは一度も無かった。白人は我々と条約を取り交わした後それを守った事があっただろうか。一度も無かった。私が子供の頃はスー族が世界の主だった。太陽はスー族の土地から登りスー族の土地に沈んだ。戦闘には10000の戦士を引き連れていった。今その戦士達は何処へ行ったしまったのか。誰かが皆殺しにしてしまったのか。我々の土地は何処にあるのだ誰かに略奪されてしまったのか。インディアンが白人の唯一の財産である土地をかすめとったという白人がいるがどうしてそんな事が言えるのだ。しかし彼らはインディアンは盗人だといっているのだ」 |
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| 平原インディアンはバッファローと共に生活のサイクルがあったのですが、白人達は食料としてではなく楽しみと皮を取るためだけにバッファローを殺した。最盛期何百万頭もいたバッファローは保護に入ったときは千頭ほどになっていたようですからいかにすごい乱獲であったが解ります。そして白人が持ち込んだ牛の病気がバッファローに感染したことも減少に追い打ちをかけたようです。このことでインディアンは今までのの生活サイクルを壊され食料不足となり西へ進む白人達を襲いだした。そこでアメリカ政府はインディアンに多額の金を渡し1851年ララミー砦においてスー、シャイアン、アラパホ族と協定を結んだがアメリカが南北戦争になると同時に協定は破られ1862年スー族の一部が砦、農耕地、商人などを襲い、数週間のうちに700人のアメリカ人が殺された。アメリカ政府はこの後インディアンとの戦いは国家戦争とするそしてその扱いは「野獣と同じ」という結果となり1800人のスー族が捕らわれ300人が絞首刑となった。そして1864年有名なコロラド民兵によるサンドクリークの何百人の女子供もふくむシヤイアンの虐殺がおこる。1865年に南北戦争が終わると政府は本格的にインディアンとの戦闘にはいる。そしてスー族は領土を守るため族長レッド・クラウドとクレージー・ホースはアラパホ、シャイアンの指示を受け砦にゲリラ攻撃をかける。そしてこまった政府側は新しい条件で条約を結んだのだが、ビッグホーンのバファローの狩り場で金が発見され白人達がなだれこんだ。政府はカスター将軍を派遣し秩序を回復させようとしたがカスター将軍そのものがインディアンを嘲笑し挑発した。クレイジーホースとシッティングブルが率いるスー、シャイアンの連合軍は1876年6月、カスター将軍率いる第7騎兵隊第5中隊をリトル・ビッグ・ホーン川の畔で全滅させた。政府はクルック将軍を派遣しスー族を攻撃させた。シッティングブルはカナダに逃れクレイジーホースは保留地に戻りそこで殺された。その後オレゴンでネ・ペルス族が族長ジョゼフ以下100人が反乱を起こしたが1877年までに鎮圧されている。これで平原インティアンの戦争は終末を迎えるが第7騎兵隊のインディアンに対する憎しみは根強くこの頃インディアンの間で「ある日、目を覚ますと白人は消え失せバッファローは無数にいる」救世主を呼ぶ「ゴースト・ダンス」が流行これを押さえ込むためにスー族の保留地サウス・ダコタのパイン・リッジ保留地に出動族長シッテングブルは射殺され数日後ウーンデット・ニー・クリークで騎兵隊の一人が撃った一発の銃声から虐殺が始まり女、子供を含む300人が殺された。クルック将軍の後任シェリダン将軍の言葉「私の知っているインディアンで一番良いインディアンは死んでいるインディアンだ」許されない言葉だが現実に北米に住んでいた100万のインディアンはこの時には25万人になっていたのである。この時の平原インディアン戦争では白人7000人インディアン7000人が亡くなっている。 | |
死んだ同胞の全世界が よみがえる、よみがえる わが同胞が やってくる、やってくる 斑鷲がお告げを運んでくる 神のお告げを 神のみ言葉とお望みを 輝かしい新しい大地の上を 死んだ同胞がやってくる 大鹿と鹿を追い立てながら やってくる 見よ野牛の群だ 彼らが狩りたててくるのは これぞ、神のお約束だ これぞ神の賜物だ 「コ゜ースト・ダンスの歌」 スー族 ![]() スー族最高の勇士の「印」のシャツはこのようなものであったとおもう |
クレイジー・ホース スー族「ダコダ」の幻の英雄クレイジー・ホース、写真は一枚も残っていない。そして彼自身も白人を避け生活をし、唯一の白人との接触地「砦」にも現れ無い様にしていたようだ。それゆえ彼の話は同年齢のインディアンそして敵としてたたかった騎兵隊の兵隊の話から想像するしかないようだ。クレイジー・ホースと偶然だがカスター大佐とは同年代に生きたようだ。クレイジー・ホースは白人のいない昔の生活も充分知り、そして白人達が大挙して西部に流れ込んだ時期も充分知っている人である。1840年サウスダコダに酋長の子として生まれ当時のダコダ族は人口も多く最大の領地を持つ種族であった。幼い時より抜きんでた知力と勇気を持ちインディアンとしては色は白く髪も茶色がかっていたようだ。彼が最初の白人とのトラブルにであったのは1854年モルモン教徒の移動中に病気の牛が隊列を離れそれを部族のカンデングベアー酋長の部下が食べてしまったことから持ち主が軍隊に訴えグラットン中尉が部下とともに村に現れた、酋長は牛の替わりに馬を差し出したのだが、グラットンは酋長を射殺これに怒った戦士達がグラットン隊を殲滅、この話は政府に一方的に伝わり後に「ブッチャー」と呼ばれるウイリアム・ハーニー将軍と兵600人を送り込み戦士の留守の間の村を襲い女、子供を虐殺する。このことでクレイジー・ホースの白人不信は決定的になる。そして山にこもり4日の間飲食を断ちお告げを待つ。そして得た答えはシンプルに生きる、戦いに集中する、仲間に多く期待しない、そして自分が仲間に囲まれ兵隊も居る夢をみる。南北戦争の間は平和であったが終戦と同時に本格的に白人が兵隊とともにやってくるようになった。1866年領地の中にグラント大統領はボーズマン街道をひかせる。そこに3つの砦を築くが白人達は襲われ1867年にはボーズマン街道は使用禁止となる。南北戦争経験者フォッターマンは80人の部下があればスー族を滅ぼしてみせると豪語していたがクレイジー・ホース率いるスー、シャイアン族の戦士のまえに偶然の数字80名の部下と共に全滅する、このことでクレイジー・ホースは最高の勇者の印の「シャツ」を着ることになるが女性問題でこの地位を失う。しかし実力は誰もが認め尊敬を失う事はなかった。そして平原インディアンと軍隊の本格戦争が始まる1876年にクルック将軍と1500名の軍と戦いクルック将軍は負傷退却ここでもクレイジー・ホースは勝利する。そしてカスター大佐とのリトル・ビッグホーンの戦いになるが敵の先発リノー少佐の部隊を蹴散らしたクレイジー・ホースはカスター隊へと襲いかかりカスター隊の全滅ということになる。クレイジー・ホースは若い時の他部族との戦闘、そして軍隊の戦争においても常に一番危険な場所で体に白い斑点の絵の具を塗り「シャツ」をつけてピントの馬に乗り戦ったが1発の弾も当たったことがなかった。この戦いの後盟友シッティング・ブルはカナダへクレイジー・ホースは部族をつれ南へと逃れるが冬の寒さと飢えのためロビンソン砦に投降するが言葉の行き違いのため同族の軍の斥候のインディアン達に腕を取られているときに1人の兵士に銃剣でさされ死亡する。やはり昔見たお告げどうりの死を迎えてしまったのである。一度も戦闘では負けたことが無く、弾も当たらなかった勇士はこんなつまらない死に方をしたのである。 |
赤い人「インデイィアン」最後の戦士達 B
アパッチ族
コチーズ
この勇者の写真も探しましたが今まで見つけておりません。チリカーワ・アパッチの偉大な指導者です。ジェームス・スチュアートの「折れた矢」でジェフ・チャンドラーが演じた人物です。ジェロニモはシャーマンですがこの方は本物の族長です。映画のため「駅馬車」などでは平原インディアンのように馬に乗り攻撃するように創られていますが、アパッチ族のテリトリーは「西部劇」で言えば映画「許されざる者」オードリ・ヘプパーンのカイオワ・アパッチ以外はアリゾナ南部からメキシコの荒地にかけて住んでいたようです。こんな不毛の土地を元々のテリトリーとしていたため馬は殆どが食料として飼われていたみたいで、その見返りとして非常に移動のための足が発達していたようです。だから戦いは平原インディアンのように頭に羽根飾りををつけ馬を乗り回すというような派手なものではなく地味なゲリラ戦のような戦いが主だったようです。映画バート・ランカスターの「ワイルド・アパッチ」のように殆どが走る事で移動していたようです。住居は日乾煉瓦の「プエプロ」にも住んでいたが、普通はお椀のような創りで骨組みの支柱の間に小枝を集めて被せた「ウィキアップ」丁度鳥の巣を逆さまにしたような住居が主だったようだ。そんなことで人数は「バンド」と言われる少人数で暮らし、戦闘時には集合し50人くらいが最大であったようだ。岩と草になりきった彼らは白人が気づくときにはもう遅く、襲った後は風のように消えてしまう。そして夜も活動をしていたようだ。平原インディアンのする「スカルプ」頭の皮を剥ぐ習慣はなかったようだが、過去のメキシコ人たちに受けた仕打ちから捕らえた時の仕打ちはかなり酷かったようで復讐のためか、火炙り、遺体を切り裂く、兵士の首に縄をかけ馬で引きずるというものだった。もともと南北戦争の英雄、戦後大統領になったグラントは奴隷同様アパッチにも理解のあった人物のようで最初の管理者はクルック将軍、後にマイルズ将軍に引き継がれる。さて主人公コチーズの話に戻るが、対アパッチ戦争で唯一准将に名誉昇進をしたルーベン・F・バーナードの話としてのコチーズの性格を紹介しよう。コチーズは白人と争ったことは一度もなかったが1860年のあるとき一人の将校がアパッチの捕虜になっている白人少年との捕虜交換ようにコチーズを利用しようとしてコチーズ一家を将校の家の夕食に招いた。当然将校はコチーズ一家と捕虜の白人少年との交換を目論んだわけだ。だがこの計画は失敗しコチーズは負傷するが脱出する。この後兵士13人が火炙りで殺され、5人が拷問で身体を切り刻まれ、15人が後ろ手で縛られ馬で引きずられて死亡した。1860年の春キャンプ・ボウイーから20マイルまでの地点で行われたことだった。第一騎兵隊G中隊長だったバーナードは1869年5月29日にキャンプ・ボウイーの指揮官になり同7月4日にコチーズと戦っている。そして8月からコチーズの本拠地チリカーワ山脈を何度も偵察させている。そして10月20日彼の部隊と第八騎兵隊G中隊、合計61名でコチーズを襲うが逆にチリカーワ峠でコチーズに待ち伏せされる。コチーズ隊の十字砲火の中バーナードが15名の兵士を丘の上に上らせチリカーワの背後から銃撃させた。インディアンは逃げたが兵士、戦死2名負傷2名の損傷が出た。そしてバーナードの報告ではインディアンは18人の戦士を失った。1870年1月27日ドラグーン山脈でバーナードの2個中隊が13人のチリカーワを殺し、キャンプを破壊した。しかしコチーズは脱出した。1871年5月5日ホェットストーン山脈で第三騎兵隊ハワード・B・カッシング中尉ほか3人がコチーズの待ち伏せにより戦死する。だがこれが彼の最後の勝利で翌1872年にハワード将軍「ワシントンのハワード大学の創立者」と和平を結んだ。コチーズはグラント大統領の人道主義政策の推進者として1874年に静かに生涯を終えた。思えば白人とインディアンの戦いの中のよい時代を生きた族長だったのでしょうね。戦いはこれ以後ますます激しくなり「ジェロニモ」の時代へと移ります。
ジェロニモ
下の写真はアパッチの「戦いのシャーマン」ジェロニモです。父親にもらった名前はゴヤスレイ「あくびをする者」と言う意味らしい。ジェロニモと言う名は最初の妻と子供達の復讐を行ったメキシコの町カスキーエの守護聖人のサン・ヘロニモの英語読みである。一番最後まで白人とたたかった人であります。私としてはこの人の人間的なところが大好きであります。左の写真は1886年にクルック将軍との会談の時に撮られた写真ですが向かって右端がジェロニモです。右の写真は捕らわれた後、彼に許された収入のひとつ一枚25セントで売られた写真です。そして彼は一度キリスト教徒となりますがギャンブルがやめられず破門されている。誰かによく似ているような気がします。
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| アパッチ族は、はっきりと4つの部族に分かれていた。チリカワ、メスカレロ、リパン、ヒカリアであるが、ジェロニモは南チリカワ族で1829年に生まれ北チリカワ族の下で成長した。もともとアパッチ族のテリトリーがアリゾナ南部とメキシコにまたがる地区北はドラグーン山塊、チリカワ山、南はメキシコのシェラ・マドレ山脈が彼らの生活していた場所であるが、今アメリカの地図を見ていただいてもよくわかりますが銀、銅などの鉱山地帯であります。アパッチの悲劇はこの事が大きく関係しているようです。メキシコは鉱山奴隷としてインディアンを使い。アメリカは鉱山権利の為の縄張りをアパッチに関係なくはじめます。北にアメリカ人が初めて来たときはアパッチは交易に来たのだと思い事実白人達も交易に来たように振る舞い次に来たときは杭を打ち縄張りを始めていたがアパッチは交易に来たと思い近づくといきなり銃で撃ち殺された。メキシコ側でも1858年カスキエの町の近辺で男達が交易のためキャンプを離れた時に留守を守る老人、女、子供達がメキシコ人に襲われ虐殺される。ジェロニモは母、妻、子供2人の身内全員が殺害された。ここからジェロニモの長い戦いが始まる。族長マンガス・コロラドはジェロニモをコチーズ・アパッチ、ネドニ・アパッチの元に送り援助を求めた。ここで一体となったアパッチはカスキエの町に復讐をするこの時にマンガス・コロラド、コチーズ両族長はジェロニモをこの戦いの戦時酋長とする。この戦いの阿修羅ぶりがメキシコ人に恐れられ「ゴヤスレイ」はジェロニモと呼ばれることとなる。この後マンガス・コロラドが死亡しコチーズの元に一つになったチリカワにジェロニモも加わった。グループの事を「バンド」というらしい。そしてコチーズ族長が亡くなったころ彼らアパッチにもニューメキシコの不毛の地サンカルロスへ移れという政府の命令がでた。その地でキリスト教に改宗し、土地の開墾、農耕、牧畜をして暮らす事を要求された。半数の者はこれに応じたが残りのチリカワは土地と自由を求めジェロニモをリーダーに逃亡した。ゲリラ戦が続き、何度か逮捕、逃亡を繰り返したがついに1886年8月マイルズ将軍に捕らわれ9月に正式に降伏する。女、子供を含む家族で行動していた彼らは全員戦争犯罪者として投獄される。ジェロニモはその後も逃亡を企てては失敗する。彼は終生故郷のアリゾナに帰してくれるよう政府にたのんだが最後まで政府の監視下におかれた。そして囚人のままバッファロー・ビルのワイルド・ウエストショウに出たり、テディ・ルーズ゛ベルト大統領の就任式には馬にのってパレードに参加したようだ。そして1909年オクラホマのシル砦にて没する。 来たれ、戦士よ。鷹のように、自由に来たりて戦え、鷹のように「チリカワ・アパッチの詠唱歌」 Today is a very good day to die. Every living thing is in harmony with me. Every voice sings a chorus within me. All beauty has come to rest in my eyse. All bad thoughts have departed from me. Today is a very good day to die. My land is peaceful around me. My fields have been turned for the last time. My house is filled with laughter. My children have come home. Yes,today is a very good day to die. |
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| 1886年フロリダに護送される「ジェロニモ」と一族の人たち前列右から3人目が彼らしいが写真が悪く申しわけありません。 | |
赤い人「インデイィアン」最後の戦士達 C
「西部劇」に登場する白人の土地確保のために追いやられた各インディアン種族の勇敢で悲しい戦いを年譜として下に上げてみました。
| 1864年11月 | チヴィングトン大佐による東コロラドのサンド・クリークにおける無抵抗のシャイアン族女子供130人強の虐殺事件発生、戦士たちが狩に出かけた留守をついた非情な事件である映画「ソルジャーブルー」のモデルになった |
| 1865年8月 | コナー軍パウダリー川流域に侵攻、アラパホ族を虐殺 |
| 1866年 | スー・シャイアン・アラパホ族連合軍、ボズマン街道でW・J・フェッターマン大尉以下81名を殲滅 |
| 1868年11月 | カスター中佐指揮下の騎兵隊がワシタ川においてブラック・ケトルらシャイアン族100人を殺害 |
| 1869年7月 | カー将軍指揮下の追跡隊、サミット・スプリングのシャイアン野営地を襲撃 |
| 1870年1月 | ベーカー大佐の指揮下の部隊、モンタナのマライアス川岸でブラックフット族173人を虐殺 |
| 1871年4月 | アリゾナ州ツーソンの住民がパパゴ族を傭いアパッチ族144人虐殺 |
| 1872年9月 | J・マッケンジー指揮下の第4騎兵隊、マクランズ・クリークでコマンチ23人を殺害120人を捕虜にする。 |
| 1872年〜1873年 | クルック軍、アバッチ掃討作戦ソールト・リバー・キャニオンで76人を殺害 |
| 1872年〜1873年 | モードック族、クラマス保留地への強制移住に抵抗 |
| 1873年〜1874年 | カイオワ・コマンチ・シャイアン連合軍マッケンジー隊と戦う |
| 1874年9月 | パラデュロの戦い |
| 1876年6月 | オグララ・スー族とシャイアン族ローズバッドの戦いでクルック軍を撃退 |
| 1876年6月 | シッテング・ブル、クレイジー・ホース率いるスー・シャイアン連合軍リトル・ビッグ・ホーンでカスター指揮の第7騎兵隊第5中隊を殲滅 |
| 1877年6月 | ジョーゼフ族長率いるネ・ペルセ族ホワイト・バード・キャニオンでハワード軍を撃破カナダに逃れるが後降伏する |
| 1877年〜1878年 | シャイアン族リュノー族の保留地からロビンソン砦に逃避行。多分この話がジョン・フォード監督の映画「シャイアン」のモデルかと思われる。 |
| 1879年9月 | ユート族ミルク・リバーでソンバーグ軍と衝突 |
| 1886年9月 | ジェロニモ率いるアパッチ族340人が5000人のクルック将軍の部隊に降伏 |
| 1890年2月 | 第7騎兵隊ビッグフット率いるスー族をウーンデット・ニーで虐殺153人とも300人とも言われている |
| 1891年1月 | オグララ族レッド・クラウド降伏ここに平原インディアン戦争は終結する |
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左の写真はネ・ペルセ族の族長ジョーゼフ 右の写真はオグララ「スー」族の族長レッド・クラウド |