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拍車とブーツ
もともと拍車は1500年代にスペイン入植者が持ち込んだもので、カウボーイの使う物は星型の歯輪が付いたものが多い。これは馬を傷つけるためではなく手入れの行き届いてない馬を使うので、縺れた馬の毛を突き抜けて馬に合図を送るためである。ブーツは誂えると1880年当時で一足15$もしたそうである、これはカウボーイの一ヶ月の稼ぎの半分くらいになるようだ。カウボーイのブーツの特徴として踵が細く高いのは乗馬中鐙からブーツが外れなくするための工夫らしい。拍車は映画では屋内の対決場面などで音がするため外すとかいい小道具として使われている、結構お洒落にも用いられ銀などの飾りが付いたものも多い。
バッキー・オニール
アリゾナでの彼は新聞記者、法律家、政治家、シェリフ、賭博師、という顔を持つ。バッキーというのは賭博師としての仇名である。政敵達は彼を賭博師と呼んで攻撃をした。彼の銃の腕前は彼の生活の一部分だが無法者と戦った彼の武勇伝はそれだけでも凄いものである。本名ウイリアム・オウエン・オニール、東部育ちだが西部に憧れ1879年19歳の時にアリゾナにやってきた。フェニックスで保安官を助けて働いた後、北部の無法地帯のシェリフに選ばれ大活躍した。あるとき犯人を3週間、600マイルを追い続けユタ州で逮捕した。このことが全米の新聞に尾鰭が付いて掲載されて有名になった。その後プレスコットの市長になり、次の州知事に出馬しようとした時にキューバ戦争が始まった。彼は後の大統領ルーズヘルトの組織したラフ・ライダース「自由騎兵隊」にアリゾナ最初の人として入隊。1898年6月キューバでショットガンで撃たれて戦死した。
バット・マスターソン
1853年カナダのケベック生まれ。彼もやはりバッファロー・ハンターとしてスタート。ハンター時代にワイアット・アープと知り合い生涯つきあうこととなる。1876年アープはダッジ・シティで副保安官になったがこの時バットを助手とした。やがてアープが去り1878年郡保安官「シェリフ」に当選した。兄エド・マスターソンもシティ・マーシャルをしていたがこの年の4月にカウボーイ2人に不審尋問をし、いきなり撃たれたが屈せずに2人を射殺したあと死亡した。この年は3ヶ月に2人の保安官が射殺された。この時の2年間バットは数々の手柄をたて有名になった。この時代の保安官は映画「ワーロック」のように2足の草鞋を履く者が多くバットもサルーンの経営もしていた。この後、彼は政治家、そして最後にはニュウヨークでスポーツ記者となり1921年に亡くなった。
バートン・モスマン
彼と13人の部下で組織されたアリゾナ・レンジャースはテキサスほどは有名ではないが実力は負けず、彼の任期は短かったが無法者達は震え上がったという。ニューメキシコの牧場で育ったので少年時代から父と共に牛泥棒と戦っていたので牛泥棒のことをよく知っていた。メキシコ人との交友もありスペイン語も達者であった。最初の仕事はブルーリバーの牧場主たちから依頼された牛の監視だった。牛泥棒を追い払った後アリゾナNo1の牧場ハッシナイブス牧場の管理を頼まれた。牛泥棒のため年中赤字続きだった短期間で立て直した。その間に彼と部下に20人以上の牛泥棒が命を失っている。この腕を見込みマーフィー知事よりレンジャース設立の依頼をうけ設立、隊長となる。1901年3月13人の部下で発足、成果を上げた。組織後すぐに辞職するつもりだったが30人近い米国人を殺したメキシコの無法者オガスチン・チャコンを単身メキシコまで追いかけ逮捕の後辞職する。その後ニューメキシコの自分の牧場に戻り穏やかな生活を送った。オーディ・マーフィーの「手錠の男」1965年がこの組織がモデルでしょうか?
バッファロー「アメリカバイソン」
草原の王者バッファロー平原先住民の貴重な食料であり。皮はテント、衣服などと共存共栄で生きてきたが白人は初めの鉄道工夫達の食料までは許せるとして、皮を捕るためだけに取り始めた何万頭と言えない数のバファローが生息していたのた゜ろうが、アメリカ政府も草原インディアンの食料をたち彼らを居留地に行かすためにもバファロー狩りを奨励19世紀末には300頭ほどになってしまった。有名なガンマン達も初めはバファローハンターだった人が多い。写真が大き過ぎて使え無かったが1880年代のデトロイドでのボタ山ほどのバファローの頭蓋骨の山がありました。鯨といいアメリカは当時、結構酷いことをしたものです。映画「ダンス・ウィズ・ウルブス」より
バッファロー・ビル・コディ
アイオア生まれその後家族がカンザス州に移住。彼が11歳の時に父親が奴隷反対の演説中に殺害され働くようになった。軍隊の家畜係、カウボーイ、ポニー・エクスプレスのメッセンジャー、彼を有名にしたのは鉄道労働者の食料のバッファローハンターとなりその腕の良さから「バッファロー・ビル」の異名を得た。作家ネッド・バントラインに取り上げられ全国的に有名になる。1882年から「ワイルド・ウエスト」という野外劇を始め大成功を納める。ワイルド・ビル、シッティング・ブル、アニー・オークリーなどが出演した。晩年は共同経営者の死亡、自分の浪費癖などで不遇の内にデンバーで亡くなった。写真はワイルド・ウェストで馬に乗るビル
ハリー・トレッシー
ワイルド・バンチでキッド・カーリーに並ぶガンマン。撃つ機械とまで言われた殺人鬼、1871年ニューヨーク州生まれと言われている。16歳で盗みで追ってきた保安官を殺したのが最初で、その後賭博師として行く先々でトラブルを起こした。夫婦で駅馬車を襲ったときに彼が捕まり妻に助けられ逃亡、その銃撃戦で妻を喪う。一人になった彼はワイルド・バンチに参加、あるとき追っ手に追われた彼は寒さのために捕まるが木製の拳銃を作り脱獄、再び捕まるがコロラドで脱獄する。デヴ・メリルと知り合い妹ローズと結婚、デヴと仕事をし又も二人で捕まる。そしてまた脱獄、彼の首には8000$の賞金が懸かる。諍いで相棒デヴまでも殺してしまう。1902年ワシントン州で追っ手に追い詰められ拳銃自殺して果てた。
ビル・ドーリン
オクラホマのドーリン・ギャングのボス。元々は知識もあり良いカウボーイだったが、友人のエメット・ダルトンに誘われ強盗に参加し大金を手に入れて悪の道へ踏み込んだ。ダルトン兄弟がコフィビルでの銀行強盗に失敗した時は無謀な計画と参加せず、その後を受けてリーダーとなり以後5年間暴れ続けた。彼らの潜伏場所インガルスで待ち伏せした3人の保安官は逆に全員射殺されてしまった。ここで名保安官ビル・ティルマン3人組みが追い始めた。No2のリトル・ビル・ライドラー、ビター・クリーク、女性メンバー、キャトル・アニーなどが次々と殺されたり逮捕された。96年傷の療治にアーカンサスのユーリア温泉に潜伏していた時に正装で正体を隠したティルマン保安官に逮捕された。50年の刑を言い渡されたが脱獄してニューメキシコに隠れたが、妻子を迎えにオクラホマに忍び帰ったときにヘック・トーマスの率いる追跡隊に射殺された。その後に仲間のデック・ウエストも殺された。写真はどう見ても殺された時の写真のようですね。映画は「オクラホマ無宿」1949年。
ビル・マクドナルド
ジョン・ヒュースに並び評されるているテキサス・レンジャースの隊長。1852年ミシシッピーで南軍将校の子として生まれた。戦争で父は戦死、戦後テキサスに移り住み一家の働き手となった。18歳の時に黒人のトラブルに巻き込まれ逮捕された。結婚した彼は自分の店を持つが、やがてシェリフの助手をする。その時に自分の天職を得た彼は銃の腕もめきめきと上がり、「速く抜いてゆっくり撃つ」のが彼の射撃スタイル。一時退職し牧場を持ったが牛泥棒にやられ再びバッチを付けた。ブロクン兄弟ら牛泥棒たちを追った。その後連邦保安官補に選出されて北部テキサスから南部カンザスまでの逮捕権を持った。1891年レンジャースB隊の隊長の席が空くと親交のあった州知事に頼み隊長になった。受け持ち地区はバンハンドル地方、たの州からも無法者が逃げ込んでくるような危ない土地だった。隊員は少なかったが2、3人でパトロールさせて成果を上げた。1907年州税局長になるまでB隊を率いて大活躍の連続、壊滅したギャング団はオグル・ギャング等数多い。ルーズベルト大統領の狩りの案内をするなど、全国的に名は知れ渡った。
ビル・ロングレー
映画には登場しないがテキサスでは有数のガンマン。子供の時から乗馬、射撃に秀でて、16歳の時に黒人を射殺その後黒人を2人射殺した。旅の道連れの馬泥棒ジョーンという男と一緒のところを捕らえられ吊るし首にされたがロープが切れて助かった。テキサスで名高いカレン・ベーカー・ギャングに参加したが、まもなく単身で流れ歩き各地で殺人を続けた。2度捕らえられたが脱獄、スネーク族内に身を隠した。カンザスでカードでもめた男を撃ち殺しその男の父親に1500$の賞金を懸けられると友人と計りまんまとその賞金を手に入れた。フィンレーという保安官に逮捕されたがその保安官ビルの身内から500$出させて彼を釈放してしまった。26歳の頃に二人をショットガンで射殺、その1人ウイルソン・アンダースン殺しの罪でシェリフ、ミルト・マスト達に捕まり1878年11月テキサスのギデングスで吊るし首になった。
ピンカートン探偵社
写真は南北戦争中北軍の情報活動をしていた時の創設者アラン・ピンカートンです。アラン・ピンカートンはスコットランドからの移民でシカゴ警察の刑事をした後独立し探偵社を始める。初めは鉄道会社の護衛が主な仕事であったが、戦争中にリンカン大統領の列車内暗殺を未然に防ぎ一躍全米に知られることとなった。戦後は有名なジェシー・ジェームス、コール・ヤンガーの兄弟を追うが自社の探偵が次々と殺され、報復として探偵社の探偵がジェシー・ジェイムスの母の家に爆弾を投げ入れ9歳の息子は即死、母は右手切断の重傷と言う事件が起き世間から非難される。がヤンガー兄弟は壊滅ジェシー・ジェームスも裏切り者に暗殺され事件は終了した。後に会社は2人の息子に引き継がれワイルド・バンチとの銃撃戦に勝ち彼らを南アメリカへと追い払うことになる。
ファニング
コルトSAAピースメーカー・シングルアクションの銃で早く撃つための方法、まず引き金を絞ったままで銃を抜き左手の平で撃鉄を扇ぎ連発さす、古くは「荒野の決闘」のワード・ボンドが馬上からクラントンがアープを撃とうとしたときに柵の上からこの撃ち方を見せてくれます、最近では「トゥムストン」のOKコラルでバル・キルマーのドクがアープを助けるため迫力のあるこの撃ち方を見せてくれます。
ブラック・バート
本名チャールス・E・ボルトン、カリフォルニヤが生んだ駅馬車強盗のNO1である。1875年から8年間に28回の強盗に成功。なかなか粋な男で何時も一人でショット・ガンを手に眼のところだけに穴を開けた小麦粉袋を被り、低い声で命令した。そして空の郵便箱にブラック・バートのサインの一編の詩を残していった。ウェルス・ファーゴは800$の賞金を賭けた。しかし現場に残したハンカチの洗濯屋のナンバーから捕まる。サン・クゥエティ刑務所で服役後今度はウェルス・ファーゴ社で働いた。
フランク・レスリー
ワイアット・アープの評価ではドク・ホリディ並みのガンマンである。1842年ヴァージニア生まれ、本名ナッシュビル・フランクリン・レスリー。17歳でドイツ留学をしたぐらいの知識人。南北戦争で南軍に参加し終戦後はアリゾナに移りアパッチ戦の民間スカウトとして活躍、この頃にトム・ホーンと知り合った。その後トゥームストンの酒場のバーテンとなった。このときに毛皮のジャケットを愛用していたことからバックスキン・フランク・レスリーと呼ばれるようになった。人妻との情事からその夫と決闘して勝ち悪名がたち深酒を始める。ジョニー・リンゴゥともよく飲んだようだがアープに味方するわけでもなく中立だった。彼は拳銃をホルスターには差さず細工した金具でベルトに吊るしそのまま腰撃ちで撃った。その分速く撃てたようだ。リンゴゥが死んだときに犯人と疑われビリー・クレイボンに絡まれ決闘して撃ち殺した。89年妻殺しでジョン・スローターに捕まり終身刑となったが97年に釈放された。彼の話だと妻は雇い人ネールに殺されたということで彼を追いかけ足を撃ったという。事実ネールの足には傷があったという。1922年カルフォルニアで没する。
ブリガム・ヤング
1832年30歳の時にジョゼフ・スミスが創設したモルモン教に改宗するがこの年に最初の妻ミリアムを肺結核で喪う。翌年メアリーと知り合い結婚する。この年にジョゼフと直接出会い、布教に才能を発揮する。35年彼はモルモン教の上層組織「12使徒委員会」の一人に任命される。38年モルモン教会本部はミズーリからイリノイ州ナヴーに移る信者3000人の移動の総指揮を取る。41年ジョゼフ・スミス教会上層部に一夫多妻制を進める。以後3年間にブリガムは4人と重婚する。44年ジョゼフ合衆国大統領に出馬するが暴徒に殺害される。その後を継いでブリガムが指導者となる。46年合衆国外に独立国を造ろうとしたブリガムはナヴーを捨て1年半でソルトレークに教徒の大移動を行う。49年メキシコ戦争の割譲地に「ステイト・オブ・デザレット」という事実上の独立国を造る。この時にジム・ブリッジャーが追われたのかな、だが信徒達は努力に努力を重ね人間がとても住めそうに無いこの土地に立派な農地と町を造り上げた。その後この地が南北に分かれたときにブリガムは北半分のユタ準州の初代知事となる。52年正式に一夫多妻制を宣言する。この時彼の妻は15人とか!!。57年ブキャナン大統領のユタ戦争、ブリガムは焦土作戦を考えるが和議が成立する。69年大陸横断鉄道開通、是によりユタは全米社会と直結。77年ブリガム・ヤング76歳で永眠90年モルモン教会は啓示により一夫多妻制を放棄する、95年ユタ州に昇格する。悪漢ブッチ・キャシディーが珍しくこの信徒なんですねえ。
ベル・スター
盗賊の女王ベル・スター「1848・・・・1889」は新聞や大衆小説家によって創られた。本物のベルは無法者のボーイフレンドを何人も持ち、やがてインディアン居留地内でちゃちなギャング団を作ったが、最後は本物の息子に射殺されたという。諸説あるので此方の方も書いておきます。「1846・・・・1889」ミズーリのカーサァジのジョン・シャアリイ判事の娘として生まれた。一家そろって南軍贔屓で兄エドワードはクァントレル・ゲリラに参加していたが戦死。乗馬と射撃の上手かった彼女もゲリラに参加していた。ゲリラの仲間ジム・リィドと恋仲になり敗戦後二人はテキサスへ、ところがリィドが殺されチェロキーインディアンのサム・スターと結婚ベル・スターと名乗ることとなる。そしてインディアン地区で牧場を開いた。この牧場は悪人たちの隠れ家となり彼女自身も部下8人を持つ女ボス。1889年殺人犯エドガア・ワトスンと争い射殺される。ロング・ライダーズでは恋仲という設定で「コール・ヤンガー」デビット・キャラダインがテキサスまで彼女を追い夫のインディアン、サム・スターと酒場でナイフでの迫力ある決闘シーンがありましたね。
ベン・トンプソン
賭博師、ガンマンどちらも第一級。弟のビリーは病的な殺人狂で兄はその面倒をよくみたという。生まれは定かではない。若くして賭博師となり、ニューオリンズで裸同士のナイフでの決闘をした。南北戦争では南軍に参加したが上官を撃って逃走。戦後メキシコに逃れマキシミリアン帝の下で働く。その後弟と賭博師家業で流れ歩き、アビリーンで友人のコウがヒコックに殺されたときにウェス・ハーディンをそそのかしヒコックを狙わせたが失敗。テキサスに戻った彼はオースチンで保安官に選ばれる。彼が射殺したジャック・ハリスの友人ビリー・シムスの酒場「白象」へキング・フィッシャーと二人で飲みに行った時に店内で突然打たれた。早撃ち二人も拳銃を抜く間もなかったという。身体には8発のウインチェスター銃の弾丸があった。彼の生涯で彼の銃で死んだものは40人以上という。
ヘンドリー・ブラウン「ヘンリー・ブラウン」
「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵の台詞に「人間とは悪を行いながら善を行い、善を行いながら悪を働くという生き物なんだ」というのがありますが、映画「ゴーストタウンの決闘」でもある町の保安官ロバート・テーラーが昔の相棒リチャード・ウイッドマークが囚われていることを知り脱獄させてやる話から映画が始まりましたが、このヘンリー・ブラウンなどはこの典型的な人物でしょうか。もともとはヘンドリー・ブラウンを名乗っていたがカンサス州コードウェルで前身を隠すためにヘンリー・ブラウンを名乗った。生い立ちは不明、17歳で西部へ、バッファロー・ハンターとして銃の腕を磨く。カンザス・シティで保安官補の後、1877年フォート・グリフィンに現れ、ニャーメキシコ準州リンカーンの町で高報酬でガンマンを探していることを聞きつけ現地へ、マクスウインに雇われ「整理屋」集団に入る。ビリー・ザ・キッドと活躍したが名があがらずビリーと別れ再び1882年にフォート・グリフィンに戻った。そして新しい町コードウェルに向かった。牛で賑わう無法の町コードウェルで保安官補となり一時町を離れたが再び町へ戻り無法者と関係のあった保安官バット・カーからバッチを取り上げ自分の胸に、町も是を認めた。旧友ベン・ウィラーを保安官補に大活躍。町が静かになった礼に町議会は感謝の印として金メッキのウィンチェスター銃を彼に贈った。しかし平和になった町に飽きた彼はベンと町を出て賞金稼ぎに、そして二人はリンカーンから旧知の仲間二人を呼び出し四人でメディシャン・ヴァレー銀行を襲撃、抵抗した銀行員を射殺してしまった。そして追っ手にデビルス・キャニオンで捕まり吊るし首となった。なんとも逆の死に方をしたものだ。「ウィンチェスター銃73」では原作者スチャアート・H・レイクは彼をジェームス・スチュアートの兄スティーブン・マクナリー扮する「ダッチ・ヘンリー・ブラウン」として登場させている。
ヘンリー・プラマー
モンタナのプラマー・ギャングのボス。ケンタッキー生まれと言われている。カリフォルニアでパン屋になったが20歳ごろに保安官に選ばれた。しかし人妻との情事からその夫を殺し10年の刑を受けるが持病の肺結核のお陰ですぐに釈放された。その後、盗み、殺人を重ねワシントン州に逃げ込む。そしてここでも人妻に手を出しリンチを受けそうになりアイダホのルイストンに逃げて賭博師家業、ついにはギャング団を作り街道強盗や鉱山キャンプを襲った。その後モンタナのバンーリクに逃げて顔を知られているジャック・クリーブランドを殺し住みついた。何とここでシェリフに選出されたのである。ここでも裏でギャング団を組織しモンタナ南部をあらした。数ヶ月の間に襲われた人の数は100人に及んだという。そして表の顔でエレクタという女性と結婚している。パンノックでは遂に自警団が組織されてギャング団を追い、8名射殺、24名を逮捕して吊るし首にした。そして遂に彼がボスであることがばれて、1864年10月自らも手伝って造った絞首台に吊るされてしまった。この殺人鬼あくまでも礼儀正しく、物静かでとてもそんな風には見えなかったという。
保安官
日本語に訳してしまえば映画などは特に「保安官」でとおってしまうが、現実には三種類の職種があったようで、大統領任命の州に1名のUSマーシャル「連邦保安官」、カウンティ・シエリフ「郡保安官」シティマーシャル「市保安官」とあったようです。トウムストンの町ではUSマーシャルとシティ・マーシャルをワイアット・アープ側が持ち、カンウティ・シェリフをクラントン側のジョン・ビアンがやっていた。このことがより対立を大きくしたのかも知れませんね。写真は「リオ・ブラボー」のジョン・ウェインですがシェリフのようであります
1)カウンティ・シェリフ 
郡民の選挙により選出される行政執行官。司法権、行政権、も行使できる.任期は2年から4年、権限はしたがって郡内に限られる。給料以外の収入はこの郡シェリフの徴税による手数料が最もよかったようですね。ダッジシティにバット・マスターソンがワイアット・アープに呼ばれて最初は助手をしていたが1878年1月の選挙でこのシェリフに選ばれている。バット24歳の時だった。写真は1880年の物、純銀製です
2)US・マーシャル
各連邦地方裁判管轄区に直属の大統領任命の行政執行官
3)タウン、シティ、マーシャル
市長、町長が選ぶ警察署長、治安維持と徴税の仕事をした。普通シェリフのバッヂは星形が多いがマーシャルのバッジは星形を丸で囲ったものなどいろいろあるようだ。写真はダコタ準州デッドウッドの町のものです銀製
4)スペシャル・オフィサー
写真は「ワイアット・アープ」がダッジ・シティで付けていた物です。1870代のこの町は牛を運び込む荒っぽいカウボーイたち、食肉目的ではなく毛皮が目的のバファロー・ハンターたちが大勢やってきていた。そして彼らの懐の金を目的の賭博師、酒場、娼婦が入り込み大変な町だったようですが、腕を買われたアープに与えたこの町だけの役職であったようですね
ボーウィ・ナイフ
通常カウボーイは多用途に使えるナイフを使用するがこのナイフはテキサスのアラモの砦で戦死したジェームス・ボーウィ大佐「1799〜1836」が使って有名になった。格闘用であるので大型、ハンターたちも使用したようだ。

ウイリアム・ラッセル
ポニー・エキスプレス
1861年10月にウエスタン・ユニオン社が大陸横断の電線を引くまでの2年足らずの短い間だが駅馬車では考えられないスピードで郵便物を若者たちが単身馬で運んだ。当時の郵便物は駅馬車は20日以上、まして船便はパナマ経由で早くても2ケ月以上はかかっていた。ウイリアム・ラッセルはルートをミズーリ州セント・ジョゼフからオレゴン・トレイルを走りララミー砦へ、そこからサウス峠を越えカリフォルニア州サクラメント経由サンフランシスコにとればビジネスになると考えた。サクラメント、サンフランシスコ間は船便であった。これだと半分の10日で横断できる。そこで15マイルおきに中継所を置き全部で190の中継所を作り強力な替え馬480頭を揃え、400人の従業員が夫々に配置された。騎手は19歳から25歳までの若者80人だった。50マイルから125マイルを走り休憩して逆行の郵便物を運んだ。給料は50$から150$危険な割には高くは無かった。短い営業期間に若者たちは3000通の郵便物を運んだ。しかし思ったほどの利益は上がらなかったようだ。しかし「西部劇」の上では重要な役目を果たしている。バッファロー・ビル・コディが14歳のときにインディアンに追われ21時間40分走りに走り320マイルを走りきっている。映画はジェームス・スチュアートの「折れた矢」がこの話が入っているような気がいたします。
幌馬車
幌馬主には2種類あり『コネストガ・ワゴン』と『プレーリー・スクーナ』である。写真はコネストガ・ワゴン型です。1820年代に商人がミズーリからニューメキシコのサンタ・フェに交易品を運んだのが最初である。そして西部移住の人たちにもつかわれ1847年イリノイの西端ノーボーからユタのソルト・レークまで旅したモルモン教徒は566台のまさにワゴントレインの移動でした。1849年、1950年のゴールド・ラッシュで、オレゴン、カルフォルニアへの移動がピークで1860年を過ぎると鉄道輸送が盛んになり姿を消した。
ホブ・ダルトン「ダルトン兄弟ギャング」
グラッド、ボブ、ビル、エメットの4兄弟が中心のダルトン・ギャングの一人。カンザス南部で育ちオクラホマのグレイトランに一家で参加した。4兄弟の上の兄フランクはオクラホマの保安官補をしていたが犯人を追跡中に凶弾に倒れた。そのため後を継ぎグラッドたちは一度は星型のバッチをつけていたこともある。従兄妹は何とヤンガー兄弟だった。兄弟の中でもボブが一番荒っぽく恋愛がらみで人を撃ち、他の二人も馬泥棒の疑いをかけられた。そこで3人はビルの居たカリフォルニアへ向かう。此処で列車強盗を行ったが成果が上がらず、オクラホマに戻り本格的に列車強盗を始めた。この後の2年間は鉄道会社の株が値下がりしてしまったという。1892年10月カンサスのコフェイビルの町の銀行2軒を同時に襲ったが失敗。銃撃戦でボブとグラッドは死亡。エメットは重傷で捕らえられた。刑を終えたエメットは兄弟の伝記を書き、何と映画出演もした。ビルはその後ビル・ドーリンと活躍したが95年に射殺されてしまった。映画は「殴り込み一家」1940年がある。
ホール・イン・ザ・ウォール
西部劇時代おそらく最後のギャング達。『ワイルド・バンチ』とも呼ばれる壁の穴一味は非常に近代化された組織を作っていたようだ。犯行現場からの逃走に換え馬と食料などをおいた中継地を作っていた。そしてアジトの一つホール・イン・ザ・ウォールは入り口は狭い切り立った崖アジトの部分だけが広くなり緑も水もあるという目的さえ変わればまるで『梁山泊』のようである。リーダーのブッチ・キャシディは1866年コロラド生まれ悪漢には珍しいモルモン教徒です。肉屋に勤めていたからブッチャーからのブッチを名のった写真右端の人物、そして左端の人物が相方のサンダンス・キッドである。この地を彼らが選んだ理由は付近に仕事の場所が多いと言うことも有ったと思う。鉄道、銀行が多い。この梁山泊にはその他ジェイムズ兄弟、トム・ホーンなどがいた。しかしだんだんと追いつめられた2人はサンダンスの愛人を伴い南米ボリビアに逃走現地でも強盗を働き町で昼食中に軍隊に包囲され死んだ。ことになっているが生存説が多くある映画はポール・ニューマン。ロバート・レッドフォードの『明日に向かって撃て』があまりにも有名。