実在の有名人    2


Cアメリカン・ドリームを実現した男、バファロー・ビル・コディ



ワイルド・ウエスト・ショーでパリに巡業中の
バファロー・ビル・コディ

当時のワイルド・ウエスト・ショーのポスター

ジャック・スレード

本名ジョゼフ・アルフレッド、イリノイ生まれ。ニューメキシコで軍隊除隊後に運送会社の荷馬車隊の指揮をとっていたが60年コロラド、ジュレスバーグの駅馬車の宿駅に赴任した。前任者は町の建設者ジュレス・ベニーだったが彼の悪事に気づいたスレードとの間でトラブル、ジュレスはスレードをショット・ガンで撃つ、奇跡的に生き残った彼は後日ジュレスを嬲り殺す。駅馬車のコースが変わったときに宿駅の名前を妻の名前からヴァージニア・デルと命名する。この頃から深酒を始め飲むと凶暴になったため会社を首になる。その後モンタナ州ヴァージニア・シティに落ちつき運送業を始めたが、ここでも酒で暴れ裁判にかけられると判事を拳銃で脅す始末。当時のネヴァダ・モンタナ地方は泥棒が多く自警団が組織されていて彼も何かの原因で彼らに首を吊られた。生涯26人殺したと言われている。映画は「コロラドの決闘」昔のTV「ショットガン・スレード」も彼がモデルかな?

1860年代アメリカ東部では1ダイム(10セント)の大衆小説が大流行だった。中でもやはり人気の高かったのはワイルド・ウエストの内容のものだった。1869年にバァファロー・ビル・コディのものが登場で最高潮となり1700種類の本が出版された。やはりこのブームで最大の利益を上げた作家はあのワイアット・アープたちに銃身の馬鹿長いコルトSAAを贈ったネッド・バントラインだったのだろう。さて西部劇のヒーローの中での最大の成功者バファロー・ビル・コディ本名ウイリアム・フレデリック・コディは1846年2月26日にアイオワ州のスコット郡で6人兄妹の一人として誕生。父親アイザックに連れられて一家は1850年代初期にカンザス州の北東部レヴェンワース「ローレンス説が多い」に移住する。父親は製材所を始めるが此処も隣のミズーリ州同様、南北に分かれていろいろ揉めたようで、奴隷解放論者だった父アイザックは演説中に狙撃され重傷を負いそれがもとで死んでしまう。ビル11歳の時である。家族を養わなければならなくなったビルは幸い乗馬に才能があったので、駅馬車会社オーヴァーランド・ステージ・Cと貨物運送社コネスーガ・トレインズに伝令として雇われる。やがてオーヴァーランド・ステージ社が1860年にポニー・エクスプレスを始める14歳のビルは年齢は足らなかったが騎手として採用された。おもにコロラド地区で働いたが此処の責任者が映画「コロラドの決闘」の悪名高いジャック・スレードだった。彼は1864年にモンタナでリンチで吊るされて死亡している。危険な上に激しい労働だったので月給は高く兵隊が16$、カウボーイが30$のときに125$の高額だった。ビルはここでも大活躍、通常1日30マイルから70マイルを走るがインディアンに追われたりすると緊急に長距離を走らなければならなくなる。ビルは300マイルを21時間で走り仲間の内で3位の記録を持っている。だがこの仕事期間は短く1861年秋、電信が大陸を横断すると会社は解散となってしまう。母は細々と下宿屋を営んでいたが流行らず相変わらず貧乏だった。ビルが家に帰って間もなく母も1863年12月に死んでしまう。ビルは1864年に第七カンザス義勇騎兵隊に入隊し伝令と馬車の御者をやっていた。この時期に南軍の英雄ネーサン・ベトフォード・フォレストとスターリング・プライス両将軍との戦闘に参加している。そして何故か終戦時には病院勤務となりルイザ・フレデレックという娘と恋仲になり金の無かったビルは終戦とともに駅馬車の御者で金を作り1866年3月に結婚にこぎつけた。二人は母の家で宿屋をするが見事失敗。西に向かったビルに運がむいてくる。乗馬の巧みさと射撃の腕の活かせる天職の斥候としてカンザスのラニード砦の第七騎兵隊に入隊するが、おりしも1866年から1869年にかけては鉄道建設の絶頂期でビルはデンバーからカンザスシティの間のカンザス・パシフィック社と鉄道労働者の食料としてのバファローの肉の供給の契約する。1867年からの1年間はバファローハンターの生活をするのだが此処には名人と言われたバファロー・ビル・コムストックがいた。あるとき彼と一日に倒すバァファローの頭数の競争をする。そしてビルは69頭コムストックは46頭でビルが勝ち、ここにウイリアム・フレデリック・コディは本物のバファロー・ビル・コディとなる。ビルはこの一年で4280頭のバファローを狩った。対インディアン戦が激しくなった1868年からの4年間再び斥候として第七騎兵隊に入隊あるときカスターからの手紙を敵対するインディアンテリトリーの中を長距離駆け抜けてシェリダン将軍に届けた。これが縁となり第五騎兵隊の斥候長に抜擢される。4年間の勤務の間に16回の戦闘に参加している。1869年ユージン・A・カー少佐の第五騎兵隊がネブラスカのライオン砦からシャイアン族と戦闘しながらマクファーソン砦に入った後ソロモン川沿いの開拓地が襲われ斥候2名と赤ん坊が殺され女性2名が捕虜となる。カー少佐は7中隊とポーニー族の斥候3名を連れて追跡する。この時ビルの進言でプラット川上流のサミット・スプリングで待ち伏せする作戦をとった。7月21日ビルと斥候たちはシャイアン族のトール・ブル酋長のキャンプを発見カー少佐の4中隊と残りの2中隊がキャンプを急襲した。短時間に酋長トール・ブル以下戦士51人を殺し女子供17名を捕虜とした。捕虜になっていた2名の女性は1名救出、残念ながら1名はトマホークで頭を割られていた。凱旋後カー少佐はワシントンにビルの特別昇級を願い出ている。この戦闘でビルの名声は益々高まり斥候以外に著名人の狩猟のガイドなどもした。そんな中にs&wの工場視察に来ていたロシアのアレクセイ大公のガイドも含まれている。そしてもう一つの転機がやってくる。1ダイン小説で年間20000$も稼いでいたバントラインと会ったことである。そしてビルとヒコックが東部に行きバレンタイン演出の自分自身の役を二人は演じたりしていたが、1876年カスター大佐の部隊が全滅したころには再び第五騎兵隊に戻っていたようだ。7月1日破竹の進撃をしていた第五騎兵隊は不用意な伝令が発見され危機に陥ることとなる。この時シャイアンの勇者イエロー・ハンド「イエロー・ヘヤー」とビルとの対決がありビルが勝利し危機を脱出する。この時期に出版された自叙伝が最も信用できるようだがこれも含めて、沢山出版されたビルの本は信用できるものは少ない。この後に腕のよいマネージャー、ジョン・バークがビルの片腕となりショーを復活一座は益々大きくなり「ワイルド・ウエスト・ショー」として東部はおろかカナダ、英国、ヨーロッパを巡業し大成功を収める。このショーに出演した著名人は多く、ワイルド・ビル・ヒコック、銃の天才少女アニー・オークレー、フランク・ジェイムズ、コール・ヤンガー、シッテング・ブル、ジェロニモ等である。大金を掴んだビルはニューヨークのロチェスターに豪邸を構え、活躍の場所ネブラスカのノース・プラット河畔にウェルカム・ウィグアムと名づけた大別荘を建て旧知を歓待した。しかし別れた妻子への送金、止め処ない散財で晩年は破産する。一代でアメリカンドリームの花を咲かせたビルは1917年1月10日デンバーで生涯をおえルックアウト山上の墓で静かに眠っている。


関係の映画「 西部の王者」ジョエル・マクリー、「平原児」ヒコックをゲーリー・クーパー、ビル・コディをジェームス・エリソン


Dワイアット・アープ


ワイアット・アープがこんなにも有名になったのは1931年にスチゥアート・N・レークが晩年のアープから聞き書きした物語を「辺境の保安官ワイアット・アープ」として売り出したことによるようだ。この本は売れに売れ50年近くも再版された。あのジョン・フォード監督の詩情高い名作「荒野の決闘」もこの本によるという。しかし今のファンであのような潔癖、素朴なアープを実像と思われる方は居ないだろう。そこで私ごときが能書きを言っても仕方がないので簡単に紹介を、彼は1849年3月19日にイリノイ州マンモスの農家に5人兄弟の三男として生まれた。1864年に一家はカリフォルニアに移った。すぐ上の兄バージルとすぐ下の弟モーガンが保安官としてアープと行動をともにしている。彼も他のガンマン同様最初はバファローハンターをやり、1873年8月13日カンサス州ウェルスフォースでベン・トムスンの無血逮捕に始まり、1874年から二年間ウイチタの保安官を務め、1876年にダッチシティの治安にあたる当時のこの町は牛を運び込むカウボーイ、毛皮を運び込むバファローハンター、その金に群がる賭博師、酒場、娼婦と全くの無法の町だった。理由の一つにかなり離れた北の町ヘイズシティにしか裁判所が無かったせいもあるようです。だから治安側にもアープはじめ有名なガンマンが集まった。1879年ダッジシティを出たアープは事業を始めるためにアリゾナに入る。兄バージルに会うためプレスコットで列車をおりた。その町でアリゾナの連邦保安官C・P・デイと会いトウムストンの連邦保安官補佐を引き受けるよう頼まれ引き受ける。後はご存知OKコラルでの対決があり、全てが終わったあとカリフォルニアに移る。そして晩年は鉱山、油田を持ち裕福だっようだ。1929年1月13日にロサンゼルスで安らかに亡くなっている。今、彼の生涯についてある程度正しいと思われる映画、少々長すぎだがケビン・コスナーの「ワイアット・アープ」がある。その上にカート・ラッセルの「トゥームストン」この二本の上にジョン・スタージェズ監督の「OK牧場の決斗」「墓石と決闘」を鑑賞していただければ、実像に一番迫れるのではないかと思います。なお現代の「西部劇」の大家、逢坂剛さんも当時この町に住んでいた日本人の眼から見たOKコラルの対決を推理されて「墓石の伝説」を出版されております。OKコラルの決闘の経緯についてはこの本が一番理解できるのではないかと思います。

「トゥムストン」監督ジョージ・P・コスマトス
この映画は牛泥棒の組織カウボーイ組、つまりクラントン側だが、この一味が勢力を持ち、OKコラルの対決時には兄のバージルがシティ・マーシャルになりそれをアープが手助けするようになっている。この映画のカーリー・ビルは派手でカーリービル・スピンでホワイト保安官を射殺する場面はアクロバットのようだ。
「ワイアット・アープ」監督ローレンス・カスダン
この映画はとりあえず時間が長い、ただしかし一番確かなワイアット・アープの伝記を伝えている映画であります。この映画ではトウムストンで敵側カウボーイ組はあまり強調されて出てこない。ダッジシティでのバット・マスターソンの兄エド・マスターソンが撃たれながら相手二人を倒す場面などは、あまりにも至近距離でエドが撃たれたのでスーツに火が点き煙を出しながらバットに助けられる場面などは迫力満天ですね。

「OK牧場の決斗」監督ジョン・スタージェズ
この映画もボスはアイク・クラントンがボスになっていますね。久しぶりに見ましたが端役に懐かしい人たちが一杯でわくわくいたしました。そしてこの映画でも最初に死ぬのは隠し持っていたデリンジャーの情報をアープから聞いていたドクに、鏡で様子を見ながら振り向きざまにナイフで仕留められるのはリー・ヴァン・クリーフでしたね。
「墓石と決闘」監督ジョン・スタージェズ
この映画はOKコラルの決闘から映画が始まる。決闘以後に殺された弟モーガン、腕を失った兄バージルの復讐をドクとともに残党を追い最後はメキシコでアイク・クラントン見つけ出し射殺します。そしてドク・ホリディの入院先コロラドの療養所に見舞いをしたアープが馬車で去っているところで終わり。


ダッジシティでのアープ


一流ホテル「グレイト・ウエスタン・ホテル」賄い付きで1日1.5$、週8$であったらしい。
カンザス州ダッジ・シティはもともとヘイスシティになっているヘイス砦の分遣所だったがヘンリー・I・ダッチ大佐の指揮下の時にダッチ砦と呼ばれるようになり、1871年兵隊とバファローハンター相手のテント張りの酒場が三軒出来た。翌72年に鉄道が此処まで延びてダッジシティとなる。ところが1870年代半ばからこの町は西部の台風の目のような存在の町になった。サンタフェ鉄道の要衝の町であり鉄道が西へ伸び次の要衝の町が出来るまではこの町へテキサスからの牛の群れ、そしてバッファロー狩りの最盛期でもあり毛皮を持ち込むハンター、牛を運ぶカウボーイと気の荒い金を持った者達が集まりこの金をねらう酒場、賭博師、娼婦、町は繁栄の頂点ではあったが同時に最大の無法の町でもあった。そのため優秀な治安維持官「賭博師も兼ねた」が何人も必要であり、アープがこの町に入った頃はエド、バット、ジムのマスターソン兄弟が治安維持をしていた。バットが郡保安官、兄エドが市保安官、弟のジムとワイアットが市保安官補佐をやつていたという。ところが此処ではアープは賑やかな事件は起こしていない。せいぜい無法者クレイ・アリソンを追い払ったぐらいである。ただエド・マスターソンが二人と撃ちあい殺されている。ここで不思議なのは私が図鑑で見つけたアープがこの町でつけていたという特別職らしい「スペシャル・オフィサー」のバッチが気になっています。アープほどの男を呼んだ市側が特別に作った地位なんでしょうかねえ。

トゥムストンの町で


銀鉱が見つかり発展した町で名前は1878年の始めに最初に銀を見つけたエド・シェフリンが、当時はインディアンぐらいしか住んでなかった場所だったのでその地区の担当の騎兵隊員に「此処で見つかるのはあんたの墓石「トゥムストン」ぐらいのものさ」と言われたことで彼がこの名前を付けたらしい。アープがこの町に入ってまず画策したのは郡保安官の仕事だった。保安官と呼ばれるものには三種類有ったようで、連邦保安官、此れは大統領直轄で州に一人の要職である。次に郡保安官、当然郡内にしか権限は無いが税の徴収という業務もあり、この集めた税金の手数料が大きな金額になり給料などは目でなかったらしい。次が市長、町長の選ぶ市、町保安官である。もともとこの町にはカウボーイ組「この呼称は私は好きではありませんが」というグループがあった。一方アープは賭博の儲けのかすりと、何とか儲けの大きい郡保安官を目指したがジョン・H・ビーハンという男が自分を郡保安官になれるよう選挙の応援をしてくれたら税金からの手数料を山分けするという申し入れがあり、アープはその話に乗る。当選したビーハンは手数料の話は無かったことにし一銭もアープには入らなかった。その上「ワイアット・アープ」「トゥムストン」に出てくる旅の劇団の女優ジョゼフィンは本当のようでビーハンと同棲するがビーハンの浮気で破局、その後にその女優ジョゼフィンはアープと暮らし始め生涯添い遂げる。こんなこともありこの後二人は尽く反目することとなる。そしてトゥムストン、ベンソン間の駅馬車が襲われ御者と乗客一人が殺された。この事件は両者が犯人の擦り合いでもめに揉めた。一説ではアープ側は共和党対してカウボーイ派は民主党という政治的対立まで絡んでいるようだ。こうして両派の反目が高まった1881年10月26日に一説では酒場で酒を飲んでいたときに偶発的に始まったようだ。私も此れが正しいように思うのですがね。もしどちらかが周到に計画した決闘であれば両者のメンバーがもう少し増えているのではと思うのですが、ワイアット側はバージル、アープ、モーガン兄弟にドク・ホリデイ、相手側はアイクとビリーのクラントン兄弟、トムとフランクのマクロウリー兄弟、ビリー・クレイボーン、ウェス・フラーの6人コラルの入り口でウエス・フラーは両手を挙げて逃げ去った。結果4対5の戦いになったがアイク・クラントンも逃げた。4対4の戦いはあっという間に終わった相手はマクロウリー兄弟とビリー・クラントンの3人が死亡クレイボーンも逃げ出していた。アープ側はバージルが足、モーガンが肩を負傷していた。郡保安官のビーハンが逮捕に現れるが此方は連邦保安官補どうにも出来ない。その後闇討ちで兄バージルは片腕を失い、弟モーガンが撞球中に窓の外から撃たれ死亡する。アープは遺体と家族をカリフォルニアに送るがトウソンの町まで列車で同行する。この駅にもクラントンの手が回っていてフランク・スティルウェルをアープが射殺する。此処からは映画でも法というよりは兄弟の復讐のようになりカーリー・ビルほか関係者を次々と射殺する。復讐の終わったアープは女優のジョゼフィンと静かに生活したはずだ。1883年にバット・マスターソンに呼ばれてルーク・ショートを助けるためにチャーリー・バセットなど錚々たるメンバーでダッジシティに集合したのが最後だった。


ドク・ホリデイ
彼とアープとの親交は「ワイアット・アープ」「OK牧場の決斗」とどちらもアープがダッジシティ時代に犯人を追ってテキサス州フォート・グリフィンの町へ行った時のようですね。それもアープが鉄道現場で働いていた時の仲間の一人、拳闘家がやっている酒場に顔を出しドクからアープが情報を提供してもらうことから始まり、ダッジシテイに帰ったアープの後を追うように賭博でのトラブルからリンチを受けそうになったドクが愛人ケイト「ビッグ・ノーズ・ケイト」に助けられダッジ・シティにやってくる。映画「OK牧場の決斗」では町へシャンハイピアスが部下と乗り込んで着たときに酒場であわやのところを裏口から入ったドク・ホリデイに助けられている。シャンハイピアスは別としてこのようなことはあったようである。この後はアープとドクはトゥムストンまで一緒に行動する。

クラントン一家
ニューマン・クラントンが流れ流れて1870年代後半トウムストンの近所に牧場を開いた。息子が三人居たがコラルの争いに参加したのは次男のアイクと末っ子のビリーだが、さてその牧場とは名前だけのもので本職は家畜泥棒と街道強盗だった。メキシコから牛を盗むのが得意だったがあるときメキシコの密輸団をカーリー・ビルと襲い銀を強奪するが相手の報復で12日後殺される。コラルの決闘の前のことだった。
カーリ・ービル
アリゾナの牛泥棒のボス。生い立ちは不明だが、真っ黒の髪が巻き毛だったことからカーリーと呼ばれていたようだ。本名はウイリアム・ブロシャス「グレハム」、トゥームストンに近いコチーズ郡チャールストンを住処としていた。トゥームストンの牛泥棒のボス、オールドマン・クラントンが死んだ後はその手下も一味にした。メンバーにはビリー・クレイボン、フランク・ステネル、客分としてジョニー・リンゴゥもいた。アープ一派と対抗するため時の郡シェリフ、T・ビーハンはカーリーと手を組み時には助手として一味を使った。OKコラルで一味がやられると彼はアープ兄弟に賞金を懸けて命を狙わせた。兄弟二人を闇討ちされたアープとメスカル・スプリングで対決、アープのショットガンで撃たれて死亡。アープにはウェルス・ファーゴ社から1000$の賞金が出された。
マクロウリー兄弟
此処も三人兄弟でなんと長男は弁護士、次男フランク三男トムがいるが、フランクとトムはクラントン家の近所で牧場を開くがやっている事はクラントンと同じ仕事だった。同業だったのでクラントン一家と仲良くなるのは当然だった
幻のガンマン、ジョン・リンゴー
この名前は映画では「駅馬車」のジョン・ウエイン「拳銃王」の中年のグレゴリー・ペック、そして最も格好いい「トゥムストン」結婚式での神父を射殺するマイケル・ビーンがありますが、この場合「駅馬車」のジョン・ウエインは外さなければならないでしょうね。私自身の想像では非常に教養があったようなので南部のよい家庭の育ちで南軍に参加し敗戦。ここからアウトローの道に入ったのではと思うのですが、「トウムストン」では「星のない男」のカーク・ダグラスの次に素晴らしいガン・トゥワリングを見せてくれます。そしてドクと二人にしか解らないラテン語のやり取り今までのリンゴーでは最高ですね。しかし「トゥムストン」ではドク「バル・キルマー」との対決で倒されますが、史実では数ヵ月後、木の下で頭を半分飛ばされた死体で発見されるようですから、「拳銃王」のリンゴーもフィクションのようですね。歴史家によれば生まれはテキサスらしい1864年に兄を殺した三人の男を3発の弾丸で殺した。この話が「駅馬車」に使われたのだろう。1980年代にトゥムストンに姿を現した。歴史家曰く「彼には真の友はなく常に孤独だった。大酒に耽ったが酔うためではなく、過去と現在の自分自身を葬るためだった。常に自分の心中の何者かと苦闘していた。何かが常に彼の心を傷つけ苦しめているようだった。」と、そういえば「トゥムストン」でドクが本人も不治の病肺結核と闘いながら生きていたゆえにリンゴーの気持ちを理解していて、それをアープに語る場面がありましたね。お互い南部育ち、教養もあり虚無的に生きている似たような二人は上手くいけば親友になるところでしょうが、リンゴーはドクを嫌いクラントン、カーリー・ビル側につく。コラルの戦いには参加していないが1882年7月心に潜む難敵に最後の戦いを挑む10日間ぶっ続けで飲み続けサルファ・スプリング谷の一本の木の下で上記の状態で発見された。「OK牧場の決斗」ではジョン・アイアランドが演じていましたね。


関係の映画
「辺境の保安官」1939年ランドルフ・スコット(未輸入)、「荒野の決闘」1946年ヘンリー・フォンダ、「法律なき町」1955年ジョエル・マクリー「OK牧場の決闘」バート・ランカスター「墓石と決闘」ジェームス・ガーナー、「ドク・ホリデイ」1971年ハリス・ユージン「トゥムストン」1994年カート・ラッセル「ワイアット・アープ」1994年ケビン・コスナー等


Eブッチとサンダンスそしてワイルド・バンチ


アウトロー・トレイル
メキシコのエルパソからカナダに抜ける表街道を歩けぬ無法者たちの街道。途中に三箇所の大きな休憩地があった。北からワイオミング州中央にあるホール・イン・ザ・ウォール、中央がワイオミング、ユタ、コロラドの州境が交わる辺りにあったブラウンズ・ホール「パーク」、南がコロラド州境に近いユタ州にあったロバーズ・ローストである。ホールは穴を意味するのではなく壁のような絶壁に作られている道のことを表すようだ。特にホール・イン・ザ・ウォールここにお世話になった無法者は多く、ブッチ・キャシディ、サンダンス・キッド、キッド・カーリー、ベン・キルバトリック、ハリー・トレイシー、エルザ・レイ、チャーリー・ハンクス、ハーヴェイ・ローガン、ブラックジャック・ケッチャム、トム・ホーン、ジエイムズ兄弟なども利用したようだ。此処で世紀末に最高の強盗集団ワイルド・バンチを作り上げたブッチ・キャシディなどは牧場を持ち5年間そこで生活をした。


一番北にあったホール・イン・ザ・ウォール

中央にあったブラウンズ・ホール「パーク」

南にあったロバーズ・ロースト

ブッチ・キャシディ
バート・バカラックの曲に乗った明るい「明日に向かって撃て」のブッチ同様誰からも好かれる、非常に紳士的な人間であったようです。本名ロバート・レロイ・パーカー1866年4月13日生まれボリビアで死亡したとして1911年生存説では「1937年」名前を変えたのは母に迷惑がかからないようにという配慮だった。一家はモルモン教徒で農場を経営していたが、隣人と土地の境界で揉め、父はじめ一家はモルモンの裁判で確実に勝訴すると思っていたが負けてしまった。父親があまり教会活動に熱心でなかったことも原因のひとつだった。このことがブッチを無法者の道へと走らせるのだが、敗訴の後、収入が減った家庭は父、兄弟と夫々働き始めた。ブッチは近所にあったマーシャル牧場でカウボーイとして働くようになった。ここで優秀なカウボーイであり無法者の経験も豊富なマイク・キャシディと出会う。そして彼からカウボーイの仕事、拳銃、乗馬、を徹底的に教え込まれる。素質のあったブッチは短期間で射撃はじめカウボーイとしての仕事も一流となった。そしてマイクのような生活に憧れるようになった。彼の無法者としての名前はブッチは1892年ワイオミングのロックスプリングの肉屋で働いていたときのブッチャーからブッチとなり、キャシディは当然カウボーイの憧れの人マイク・キャシディからだ。ここにプッチ・キャシディが誕生する。無法者だが、やさしい性格と仕事振りに付近の牧場主はブッチを雇いたがったという。やがてブッチはコロラドの鉱山景気に沸くヘルライドに移る。鉱石の運搬の仕事をするが、競馬の騎手としても大活躍する。ここで後にワイルド・バンチのメンバーになるマット・ワーナーとトムナ・カーディーと知り合う。そして3人組で1889年6月24日ヘルライド町の銀行を襲い見事28000$を奪いブラウンズ・ホールに逃走してワーナーの小屋で匿われる。当時大牧場主と農民の間では牛でトラブルが常にあったがブッチも当然牛も盗んでいた。あるとき大牧場主側はブッチに罠をかけるブッチに売買証明書を付けずに馬を買わせ、馬泥棒として逮捕しワイオミング州立刑務所に2年の刑で収監するがブッチは模範囚で1年半で出所する。出所後優秀な無法者だけを集めた集団ワイルド・バンチを組織する決心をする。


若き日のブッチ・キャシディ

彼の父親
      
左マット・ワーナーと右トムナ・カーディー

ブラウンズ・ホールのワーナーの小屋

ブッチが収監されていたワイオミング州立刑務所

サンダンス・キッドエッタ・プレイス

本名ハリー・ロングボー、ペンシルベニアの良家に生まれるが幼い頃から西部小説を読みその生活に憧れ家をでて西部へ道々カウボーイの腕を磨き一流のカウボーイになる。射撃の腕はブッチ以上だったという。サンダンス・キッドの名は彼が収監されていたワイオミングのサンダンス監獄の名前から名乗ったみたいだ。愛人、謎の美女エッタ・プレイスと似合いのハンサムである。
サンダンス・キッドの愛人だが謎の多い人である。生まれも、身元もわかっていない。学校の教師をしていたと言う説もあるが、写真でもわかるように非常に上品な美人である。南米へピンカートンに追われたときもサンダンスと同行している。しかし1907年に忽然と姿を消す。こんなことからもブッチとサンダンス生存説が信じられているのかも知れませんね。

ダグラス・プレストン

酒場で窮地に立っているところをブッチに助けられる。彼は後に弁護士。ケンタッキー州立法州議員、ケンタッキー州検事総長と出世をするのだがこの時の恩義に報い以後無償でブッチの力になっている。ユニオン・バシフィク鉄道がピンカートン探偵社を雇い、自らも特別列車を作り一流のガンマン集団を集め彼等の乗る客車、馬用の車両、調理車両、の付いた列車で巡回するようになった。そこでダグラス・プレストンは列車会社とブッチの間に立ち以後列車を襲わなければ無罪放免の約束を取り付けるが、列車が遅れ、ブッチは約束の場所で一日待ちぼうけ。それでこの話はなくなってしまった。このようにブッチは大変人柄のよい人物であったようだ。

ワイルド・バンチの設立

ワイオミング州立刑務所を1年半で出所したブッチはあらゆるプロを集めた。射撃の名手、一流の詐欺師、馬の名手、とその時の仕事によって人選して仕事を行った。そして身辺には銃と頭脳がかね備わった者が多かった。キャッスル・ゲートとの鉱山労働者の給料を工夫の目の前で奪った事件をブッチと二人で行ったエルジーレイもブッチが出所後に知り合い意気投合した一人だった。そして悪事ながらその仕事に誇りを持った集団「ワイルド・バンチ」を結成する。過去の自分の経験、馬の能力を見極める力を利用し、逃走用に替え馬を用意した。それゆえ彼等は馬を休ますことなく常に全速力に近い走行が出来追っ手はそれについて行けなかった。


キャッスル・ゲートのエルジー・レイ

荒っぽい仕事のキット・カーレイ

ホール・イン・ザ・ウォールのブッチのブルクリーク牧場

ウィルコックスで破壊された列車

主な事件

1889年3月 デンバー銀行強盗
1889年6月 テラーライド銀行強盗
1893年9月 デルタ銀行強盗
1896年8月 モンペリエ銀行強盗
1897年6月 ベル・フォーシュ銀行強盗
1897年8月 キャッスル・ゲイト銀行強盗
1899年6月 ウィルコックス列車強盗 映画によく使われる事件で貨物車の車掌アーネスト・ウッドロックがドアを開けるのを拒みダイナマイトでドアを破る。吹き飛ばされたアーネストをハーベイ・ローガンが撃ち殺そうとするが、ブッチが「こんな度胸のある人間は生かしておくべきだ」と諭しアーネストは助かる。この後金庫に仕掛けたダイナマイトの量が多すぎ紙幣、証書が大空を舞う。しかし彼らは3000$を手に入れる
1899年7月 フォルサム列車強盗
1900年8月 ティプトン列車強盗
1901年7月 ワグナー列車強盗
1904年6月 パラシュート列車強盗

南米へ
20世紀に入り仕事がやりにくくなったブッチ・キャシディは牧畜が盛んになりつつあったアルゼンチンに眼をつけサンダンス・キッドとエッタ・プレイスとともに渡るつもりだった。ポート・ワースの写真館で仲間とともに集合写真をとる。ところが写真の出来がよくて写真屋が店頭に宣伝用に飾った。保安官が眼に留めて知り合いのピンカートンの探偵に知らせた。ワイルド・バンチの手配書にはそれまではブッチの監獄時代の写真しかなかった。早速その写真の載ったポスターが西部中に出回り、3人はニューヨークから南米へ出発する。アルゼンチンで牧場をしていたが相変わらず強盗の方も辞めていなかった。ボリビアでの鉱山強盗の後サン・ヴェンセンテの町で二人はホテルに入ったが主人が町の保安官で、二人の持っている騾馬が自分の友人のものであることに気づき、町の外で野営していたボリビア軍に報告する。取り囲まれた2人は応戦中サンダンスがライフルを取りに行き引き返すときに被弾する。ブッチはひきずってサンダンスを物陰にいれ応戦するが気が付くとサンダンスは死んでいた。やがて弾の尽きたブッチはサンダンスの傍らで拳銃自殺して果てる。これがボリビア死亡説だが、不思議なことに1907年にエッタが忽然と姿を消している。こんなことで中西部一帯では1920年ごろにブッチと出会って話を聞いたとか、その他の生存を裏付ける証言が飛び通ったのだ。


ポート・ワースで写した写真
右からブッチ・キャシディ、ハーベイ・ローガン、ペン・キルパトリック、ビル・カーバー、サンダンス・キッド

アルゼンチンでの3人

関係の映画
「明日に向かって撃て」ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード「新・明日に向かって撃て」トム・ベレンジャー「続・明日に向かって撃て」があります      更新08・07・14