リトル・ビッグホーンの戦い


アメリカ政府は南北戦争が終わると本格的に対インディアン戦争を開始する。北部では西への道の確保、相手は当然平原インディアンのスー族、シャイアン族、南西部ではアパッチ族ということになる。此処では北部での事件なので当然スー族シャイアン族との問題となる。第七騎兵隊の相手もこの両族が対象となる。その部族での最大の部族スー族はもともともミネソタに居住していたが元来好戦的な種族であったようで、隣接の部族12部族を吸収し南北ダコタからロッキー山脈にいたる大平原に定着したようだ。「神聖なる犬」馬を手に入れる。ここから今まで梃子摺っていたバッファロー狩りが俄然有利となり、バッファローの多いダゴタ地方あたりに定住することになる。だが聖地ブラック・ヒル近辺にオレゴンへの道ボーズマン街道が通じてからいろいろと白人との間に問題が起きて来る。ここで偉大な平原インディアン、スー族の命運を左右した三人の勇者を紹介しましょう。


レッド・クラウド
スー族の大酋長だが戦士としては若いときに限るようだ。政府がボーズマン街道に砦を作るというころには特に政治家のような行動だった。何しろあの時代に8回もワシントンDCの会議に出ているのでありますから。彼は戦いでは政府軍にとても勝てないということを知り尽くしていてパウダーリバー界隈ブラック・ヒルズの土地をスー族の領地とするときにも政府、同胞の納得するように上手に立ちまわったようだ。それゆえ最年長であるにもかかわらず最後まで生き残った。少々狡猾だが初期の白人との戦闘、交渉などを見ると、勇気ある大酋長には間違いない。
シッティング・ブル
分類すればレッドクラウドは政治家シッティングブルは宗教的予言者になるのだろうか。教養の高さ、文化的素養、絵画、歌などに秀でていた。戦いの絵などは残っているものは彼の筆になるものが多い。落款にあたる座った子牛が泡をふいている作品は40点あまり残っているようだ。彼の「サンダンス」はもの凄いもので50箇所ほどの肉を削ぎ落とし24時間踊ったという。ゆえにリトルビッグホーンの戦いでは直接戦士としては参加していない「サンダンス」の時の啓示は死んだ白人の兵士が自分の村へ空から雨のように降ってくると言うものだった。この戦いの勝利を確信していたのである。だから戦闘指揮はクレイジー・ホースに任されていた。この戦いの後彼は北へ向かいカナダで4年間生活するが一族の餓えのためにリフェード砦に降伏する。そのごビル・コディの主催するウエスタンショーなどにも出演するがヨーロッパ遠征の時に政府の自分たちの土地買い上げの話を聞きヨーロッパ行きを中止、政府との交渉の場につき50セントから1ドル25セントまで値上げさせる。他の酋長は土地を手放したが彼はサインせずに家族の待つ保留地に入る。ここの監督官ジェームス・マクローリンとことごとく意見が合わず彼が「ゴースト・ダンス」を取り入れたときに、禁止させたい卑怯なマクローリンは居留地の同じスー族のインディアンを使った警察を創設。1890年12月15日夜明けシッティング・ブルを逮捕に向かったその警察との間での至近距離からの撃ちあいでブルと息子のクロー・フット、護衛の6人、逮捕にきた警官7人が死亡する。彼もまたスー族に殺されると出ていたお告げ通りの死を迎えます。シッティング・ブル死亡後一族はビッグ・フット酋長を頼りそのキャンプに移る。そしてウーン・デッド・ニーでの虐殺に出会ってしまうのであります。
左は監督官ジェームス・マクローリンがスー族のインディアン警察官43人につけさせた徽章。右側中央の人物が上官ブル・ヘッド警部補がシッテング・ブルと相打ちになり負傷した時にシッティンブルの頭に弾丸を撃ち込んだレッド・トマホーク巡査である

クレイジー・ホース
シッティング・ブルの筆による
クレイジーホース
私の大好きなこの偉大なスー族の勇士には写真が残っておりません残念です。1840年ラビット・クリークでスー族の中の一番大きな集団ラコタの酋長の息子として生まれたようです。色は白く髪の毛は茶色でカールしていたという。そして瞳は黒、こんなことからもミステリアルですね。彼は二つの事件で徹底的に白人を憎むようになる。ひとつは1854年移動中のモルモン教の隊から一頭の病気の牛が酋長コンカーリングベアーの村に迷い込んだ。当然のように食料になったのだが牛の持ち主が返還を求める。代わりに馬で返そうとするが納得せずララミー砦に訴えでたのだ。軍隊は理由は何でもよかったここの土地がほしかっただけでグラットンと兵士を派遣する。グラットンはいきなり砲撃と射撃を始めた。酋長コンカーリングベアーは死亡、怒った戦士たちはグラットンと部下を皆殺しにする。ふたつめは、政府は将軍ウイリアム・ハーニーに600名の兵をつけて送り込む。ある日男たちは狩に出かけクレイジー・ホースは馬の調教に出かけていた。そんな平和な女、子供の村をハーニー将軍が襲い虐殺。このことでクレイジー・ホースは神の啓示を受けるため砂漠に入り、四日間飲まず食わずの極限状態で啓示を受ける。答えは「飾りを捨てシンブルに生きる、仲間に頼らない、戦いでは常に先頭で戦う、そしてなぜか仲間に抱かれている自分の姿」だった。そのお告げの後は戦闘中には一発の銃弾も当たっていない。1866年に政府はボーズマン街道に移民を守る砦を三つ作る話し合いをララミー砦で持つがレッド・クラウドは退席、残った穏健派の酋長が不利な条件に調印ここからシッティング・ブル、クレイジー・ホースたちと軍隊の戦いが始まる。砦を作る材木の運搬隊が襲われカーニー砦のキャリントン隊長はフェッターマン大尉に80名の兵をつけて送り出すが、この時「くれぐれも境界だけは越さないように」と念を押したのだがフェッターマンはかってより「私に80人の部下が居れば西部のインディアンを蹴散らして見せる」と豪語していた男である。みすぼらしいインディアン戦士の一団を見つけたフェッターマンは後を追う。これが罠であると気づいたときはもう遅くクレイジー・ホースに率いられたスー、シャイアン、アラパホの戦士に襲われ最後は彼は副官と互いの頭を拳銃で射ち合い偶然にも80人の兵士ともに死亡する。その後も続いたゲリラ戦に疲れた政府は1868年ララミー砦でスー族のブラック・ヒルズの所有権と砦を無くすことを条件にレッド・クラウドと和睦する。この時からクラウドは自分は戦士をおりる。クレイジー・ホースは家族運は無かったようで愛していたブラッバファロー・ウーマンがなぜかノーウォーターという男と結婚してしまう。しかし、しばらくして彼女はクレイジー・ホースと駆け落ちする。1870年二人のテントに現れたノーウォーターにクレイジー・ホースは拳銃で頬を撃たれる。この事件で最高の名誉、勇士の印のシャツも取り上げられる。1871年結婚し女子が生まれるが死んでしまう。彼はますます無口な男になっていった。しかし戦いと人柄とでシャツは着ていないが相変わらず皆に慕われていた。そしてカスターの遠征隊がブラックヒルズで金を発見すると再び戦いが始まった。パウダーリバーにクルック将軍がきてフェッターマン砦に入る。スー族包囲作戦の南からの攻撃だった。1876年にローズバット川上流でクルック将軍とクレイジーホース率いる1500人のラコタ、シャイアンの戦士との戦いが起き、クルック将軍は負傷、ショショニー族に助けられてやっと逃れる。その後クレイジー・ホースたちは野営地をリトル・ビッグホーンに移すが、ここに続々とテントは増え戦士の数も800人から2000人に膨れ上がった。ここでカスターとの戦いがあるのだが後に譲る。この戦いの後シッティング・ブルは北へ、クレイジー・ホースは南に向かう。寒い一冬じゅう追われたクレイジー・ホースは女、子供のことを考えて1877年にロビンソン砦にはいる。クルックはクレイジー・ホースを斥候として使おうとするが通訳のミスで答えが誤って伝えられた。そして妻を安全な場所まで送るがこれも逃亡ととられ、砦に帰ると牢獄に入れられる。このときのトラブルで同胞に腕を掴まれているときに衛兵にわき腹を銃剣で刺される。この傷がもとで苦しみながら仲間の腕のなかでお告げどおりに死亡する。

合衆国騎兵隊のリトルビッグホーンへの道


ジョージ・A・カスター
1839年オハイオ州ニューラングリーに生まれる。後に義姉とともにミシガン州モンローで青年期を過ごす。最初はオハイオで小学校の教師をしていたが、28$の給料を貰いながら勉学できるということで陸軍士官学校に入学。子供の時から遊ぶことが大好きだったので士官学校でも勉学はだめだが乗馬、剣、射撃に関しては他の生徒の追従を許さず退学すれすれの34人中34番の成績で卒業した。北軍の少尉として任官したが最初は偵察用のバルーンを上げるという退屈な任務をしていた。1862年にウイリアムバーグの戦いでの姿を目に留めたマクレラン将軍に引き抜かれ彼の部隊へ移る、しかし将軍と大統領の意見が合わず将軍は後送される。カスターも故郷に帰る。そして後に妻となる「残っている写真でも分かる」美女エリザベス・ベイコンと知り合う。1863年に戦場に復帰ここからは軍功著しく大尉となる。彼の真っ先になって敵に向かうさまは色々と批判されるが23歳で准将となりミシガン騎兵隊の隊長となる。そして500名の部下で敵の騎兵隊では最強のスチュアート軍2000名と戦い勝利、スチュアート軍とはもう一度戦いスチュアート将軍は戦死する。そして少将に進級する。やがて南北戦争は終わり本格的に平原インディアンとの戦いに移っていく。やはり気に入られていたシェルダン将軍から、時のスー族の大酋長レッド・クラウドを追う命令を受けたカスターはカンザスのライリー砦に中佐として赴任する。「カスターの将軍職は南北戦争での軍事処置であり通常の地位に戻ったわけである」しかし彼ほど評価の分かれる人物も少ないでしょうね。そこで対インディアン戦の話はあとにして彼自身の話と彼とかかわりのあった人々の言葉を書いて見ましょう。

カスター自身の言葉

私は、これまで性急になったり衝動に駆られたことは無い。私はそういうことを非常にに不快に思っている。これまで私がやってきた全ての行動は、起こりうる軍事的状況を仮定して研究をしてきた結果である。作戦行動や戦闘を行ったり、又大きな緊急事態が生じたときなどには、これまでに読んだり研究したあらゆることがあたかも拡大鏡でその状況を見るごとくに私の頭の中に湧きあがって、その結果即座に決定を下すことが出来たのである

@あの4年に及ぶ恐ろしい戦争の中で、あれほど冒険好きで勇敢な、あるいは危険な敵に出会ったことは無い。また平和なときになれば、あれほど親切で、誠意に満ち溢れた騎士道にかなった友人に出会ったことは無い。
         
T・L・ロッサーもと南軍少将
Aカスターには、国家の名誉よりも「ジョージ・アームストロング・カスター」という彼自身の「栄光ある」名前のほうがより重要であり、その為、我々の指揮官であるこの中佐が、興奮して少しでも階級のシンボルである「鷲」や「星」を心に浮かべることがあると、部下に命令した危険な任務が兵士たちの生命に関わることなど、まったく彼の考えには入らなかった。
         
セオドア・ユーアト第7騎兵隊兵士
B部下から敬愛されており、彼の部下は、「地獄の入り口」までもついていくだろう。
         
マーク・ケロッグ「ニューヨーク・ヘラルド通信員」
C彼は、兵士にも馬にも過酷だった。彼は、しょっちゅう心が変わり常に自分が正しいと思っていた。部下の将校と充分に話し合うことは決してなく、我々は彼の気紛れによって行動させられた。
         
ジェーコブ・ホーナー第7騎兵隊伍長
Dあの人は、砦の指揮官として社会的な責任を強く意識していましたし、守備兵がいつでも訪問できるように家を開放しておくべきだ信じていました。
         
妻エリザベス・カスター
E将校たちの中には、部下と気楽に付き合う人も居たが、カスターは、隊員たちとかけ離れていて、無関係であるという印象しか与えなかった。
         
チャールズ・A・ウィンドルフ第7騎兵隊軍曹
F彼は勇敢な戦士で、勇者らしく死んだ。
         
ロウ・ドッグ「リトル・ビッグホーンで戦ったスー族戦士」
G私は誇りを持って、彼を軽蔑していたといえる
         
フレデリック・W・ベンティーン第7騎兵隊大尉
ざっとこんなものである。ただ部下の将校ベンティーンの言葉は軍人としては最低ですね。どうも味方より戦った敵から高く評価されているのが不思議ですね。                                           

当時の合衆国のこの地区の軍事配置


当時の軍用地図
南北戦争が終わった1865年から1876年にかけて行われた対インディアン戦においてミシシッピ河上流地区から太平洋までの640平方kmの広大な土地に陸軍の砦が孤立した状態で点在していた。地区の隊員の人数は15000人を上回ることは無かった。こんな状態で街道を守備し、鉱夫、開拓者、牧畜業者を防衛し、さらに鉄道建設隊を保護した。しかしこれでも当時のアメリカ陸軍の総人数の2/3なのだが、この人数で西部の最前線で頑張り、フロンテアの白人の安全を守ったのである。指揮者はシャーマンからシェルダンへと移った。

合衆国陸軍のスー族への包囲


1876年フィリップ・シェリダン将軍はパウダー河流域のスー族に対して、手持ちの部隊を三つに分け、西のエリス砦からはジョン・ギボン大佐の部隊が進み、東からはリンカーン砦からアルフレッド・テリー将軍の部隊が進んだ。この部隊にカスター大佐の部隊がいた。計画では東西の部隊が合流した後インディアン集合地に向かう計画だった。だがカスター指揮の部隊が単独別行動で南下した。そして南からはクルック将軍の部隊がフェッターマン砦から北進した。この部隊をクレイジー・ホースと戦士が襲い同年6月撃破する、クルック将軍と生き残った将兵はショショニー族の助けで辛うじて脱出する。こんなことからも平原インディアン達が最後の戦いをしていることにシェリダン将軍は全く気づかなかったのだろうか。そしてこの敗戦は他の部隊は全く知らなかった。

リトル・ビッグホーンでのカスター軍の行動


1868年11月のことカスター大佐指揮下の騎兵隊がワシタのブラック・ケトル酋長の村を襲ったときのことだ。シェリダン将軍の命令「全戦士は殺すか吊るし、女子供は連れ帰れ」いう作戦でカスター大佐部隊は800人の兵力で10分足らずで勝利するが、同隊のジョーエル・エリオット少佐がインディアンを追いかけ戻らなかった。そしてその方向からは銃声が聞こえ戦闘中だということは解っていて若い士官からの進言もあったが、カスター大佐は彼等を見捨てて帰還。後にエリオット少佐とその部下の死体が3kmほどの場所で発見される。その日のうちに救出に向かえば全員助かっていたのは明白だった。カスター大佐にはこのように部下を見殺しにすると言う行動が他にもあったようだ。さて、この地図はリトル・ビッグホーンの戦いのカスター大佐の部隊の進路を示すものだが、川の左奥は集まってきたインディアンのテント(ティピー)村。カスターは部隊を3部隊に分け川の左側をリーノ少佐の部隊が進み対岸の川の右側をカスター本隊が進み、お互い好意を持っていなかったベンティーン大尉の駄馬が引く補給物資運搬部隊が中央を遅れながら進んだ。カスター大佐は、その前に行われた河船ファー・ウエスト船上での作戦会議で余分の騎兵1個大隊とガトリング・ガン中隊の参加を断っている。よほどの自信があったのだろう。だが斥候の情報は悪いものばかりだった。そのうえ今度は部隊を3つに分けた。ベンティーン隊125名、リーノ隊140名、本隊228名だった。敵の戦士は2000名以上に膨れ上がっていた。

二人の副官の戦い

マーカス・リーノ少佐の戦い
マーカス・リーノ少佐はこの戦いでスー族を突破してカスター大佐の部隊を救出出来なかったか?ということでかなりの卑怯者扱いをされているが、彼は受けた命令以上に部下を助けるための通常軍隊の指揮者としては当然の行為を行っている。カスター大佐はベンティーン大尉隊の出発した後、彼に3個中隊、将校と兵が134人斥候が16人合計150人を与え上図のように川を渡りインディアンキャンプの南端から突撃せよと命令を出した。リーノ少佐にすればこれだけの人数の敵に150名ではどうすることも出来ないのでその後方を、カスター大佐本隊225名が続いて突撃に出てくるものと考えていた。ところがカスター大佐は2000人の戦士の居る村を戦士、女子供を逃がさないようにキャンプの北側まで進み、そこから渡河してキャンプを襲おうと考えていたのだ。ここからリーノ隊の苦戦がはじまる。敵の多さにリーノ少佐は兵を下げ木立の中で下馬させようとするが最後尾の兵が次々に狙撃で殺されていき、その上インデアンは川床の草に火をつけその煙に隠れては現れ隊員を的確に殺していった。リーノ少佐は川の向こうに兵を退却させそうとするが新兵が相変わらず発砲していた。しかしそれも落ち着いて音もやみリーノ少佐ががカスター大佐お気に入りの斥候ブラッディ・ナイフの報告を聞いていたときだった。10mの距離で突然スー族から一斉射撃を受けた。その時彼の前に居たブラッディ・ナイフの頭に銃弾が当たり彼の頭はふっとんだ。此処までは一応冷静だったリーノ少佐はパニックになり自分でも分からない命令を出しとりあえず乗馬し川を渡り安全な崖の上の丘へ兵を移した。この時点で兵は半分になっていた、この半時間後ベンティーン大尉の部隊と合流する。とりあえずは守れるその崖の上の丘に壕を作り後の襲撃に備えた。インディアンの攻撃はここまでで後は狙撃兵の散発な攻撃があっただけだった。しかしこの攻撃はクレイジー・ホース指揮の攻撃であり主力戦士の一団はキャンプを抜けカスターの部隊の北側に着いていたのだった。翌日彼は空になったインディアンキャンプを見ることとなる。
フレディリック・ベンティーン大尉の戦い
ベンティーン大尉はカスターより6歳年上だった。そして自分より若い上官カスター大佐を憎んでいた。カスターも又彼を気に入ってはいなかった。この悲劇の日も命令で偵察を兼ねながら125名の部下とともに騾馬のひく食料、弾薬の警護をしながら進んでいた。途中インディアンにはまったく出会わなかった。そしてカスターは残りの部隊を彼が出発した後で2つに分けたことも連絡していなかった。そしてカスター大佐からの英語がまだ上手く使えないヨーロッパ移民の伝令からの「弾薬を送れ」の命令も切羽詰まっているのであれば人員も要求するはず、さして急いだことも無いだろうとそのままのスピードで進んだ。彼はリーノ少佐隊に出会ったときにやっと連隊にたどり着いたと思ったほどだった。だがここからはリーノ少佐とともに急場しのぎの塹壕を掘り次の襲撃に備えた。

カスターの戦い


スー族もその勇気を称えた第7騎兵隊の戦いぶり「戦闘場面をもっとも正確に描いたといわれているエドガー・バクスンの油絵」

この見事なまでの敗因は何だったのだろう。南北戦争での栄光、インディアン戦で唯一「白人にだが」名を上げたワシタ川でのブラック・ケトル酋長との戦いから8年間やっと訪れた今回の作戦にもともと自信過剰のカスター大佐はそれにもまして気を高ぶらせていたのいたのだろうか。スー、シャイアン連合軍を追ってカスター大佐の部隊は東のリンカーン砦からテリー将軍とともに出発した。河船ファー・ウエストの船上での作戦会議でも進軍が遅れるからということでガトリング砲中隊の参加を断り予備の騎兵1個大隊の参加も断っている。そしてテリー将軍は西からやってきたギボン大佐とともにリトル・ビッグホーンへ西側から南下している。カスターは第7騎兵隊のみでローズバット川沿いを南下している。そしてまず気に入らないベンティーン大尉に手柄を立てさせないように兵士125名で食料、弾薬の駄馬隊と偵察の任務につかせる。その後副官リーノ少佐に150名の部下をつけキャンプの南から突撃させ、自分の部隊225名でキャンプの北側に回りこみインディアンを逃がさないという計画をたてた。200名で2000名のインディアン戦士を逃がさないようにとの考えはどうしてできたのかは分からないが、カスター大佐が最初に攻撃を受けた場所はメディシン・トレール・クーリーだった。その時でもカスター大佐は負ける気はせず、リトルビッグホーン川の中央の浅瀬を渡り丘に向かうときにも目の前に見える大きなインディアン・キャンプを見て幸運が掴めると思っていたようだ。インディアンの猛攻撃でパニック状態の中カスターは丘に兵を集め反撃に転じ、それが出来なくても援軍が来るまでは充分持ちこたえられると思っていた。流石にこの時にはインディアン斥候を自由にさせている。しかし斥候の中にも部下の斥候を自由にし自分だけ隊に残った者もいた。取り囲もうと思ったカスター大佐軍は今は逆に2000名のインデアン戦士に囲まれていた。戦士たちはばらばらではなくよく訓練された騎兵隊のようだった。それはフェッターマン隊を壊滅させ、そしてこの作戦でも南からのクルック軍をローズバット上流で追い返した戦術の天才クレイジー・ホースの指揮だったからだった。カスター大佐は前面では攻撃の姿勢、後部は防衛の構えを整えて高地に移動した。この時点でリーノ少佐の部隊を崖の上に追いやり狙撃兵だけを残したゴール酋長の戦士数百人が浅瀬を渡りカスター大佐隊の後部を襲った。カスター大佐は義弟のカルフーン中尉のL中隊とマイルズ・キョー大尉のI中隊の2中隊に下馬させて後部の守りにつけた。そして此処に北側からやはりリーノ少佐隊の戦いに参加していたクレイジー・ホースがキャンプを通り抜け浅瀬を渡り数百人の戦士とともに到着、カスター大佐が目指している高地に反対側から先に登りつきカスター大佐と前衛3個中隊に襲いかかった。カスター大佐はもう一度部下を集結させ最後の抵抗をしようとした。後方ではゴール酋長の戦士が下馬し、兵士を一人一人倒し音を立てず姿も隠しL中隊を強襲した。兵士たちは勇敢で逃げることなくその場で戦い、死体は数日後その場で発見された。インディアンたちはその後I中隊も同じように襲った。丘の上ではカスター大佐が防備の配置を決めた。彼は最後まで冷静だった。後に発見された部下の死体の位置からもそれは明白だった。もの凄い量の弾丸を撃った銃は熱を持ち弾頭に被せている薄い銅を溶かし、薬莢も又熱のために上手く排出できず兵士たちはナイフでそれらを穿り出しながら銃を撃った。そして弾薬が尽きた兵はカービン銃を逆さまに持ち棍棒代わりにして戦った。拳銃は自分用の最後の一発以外は撃ち果たした。一部の兵隊が逃れ川に逃げたが待っていたように彼らも殺された。そしてクレイジー・ホースが馬でカスター大佐たちを踏みにじったときに戦場だった場所は急に静かになった。戦いの開始から1時間ほどの時間だった。翌朝インディアンたちはリーノ少佐とベンティーン大尉の部隊の包囲を再開した。ところが午後になるとインディアン達は一斉にキャンプをたたみ、ベンティーン大尉曰く騎兵1個師団ほどの大部隊で南へ進んで行った。テリー将軍の部隊が近づいているのを察知したらしい。この後インディアンは二手に分かれてシッティング・ブルの一行は北へ向かいカナダに、クレイジー・ホースの一行は南に向かった。27日にはテリー将軍の部隊が到着した。そして丘の上に197体の第7騎兵隊兵士の死体を発見した。全員裸にされ、切断されたり頭を剥がれていたが、カスターの死体は裸にはされていたが頭も剥がされていず体も切り裂かれていなかった。心臓とこめかみに弾痕がありどちらも致命傷だった。後日インディアンに聞いても誰がカスター大佐を殺したかもカスター大佐が居たことも知らなかったという。だがカスター大佐の死体の報告はあくまでも軍部発表のものなのでカスター大佐が居たことも知らないインディアンがカスター大佐の死体だけを特別扱いしたとは信じられない。心臓とこめかみに弾痕があるとすれば最後の一発を自分用に使った可能性も大きいのでは。だがこの丘を守った兵隊も凄かったようで、二人の酋長が次のような言葉を残している。
「私は死んだ者のことで嘘はつかないロング・ヘヤー「カスター大佐」と一緒にやってきた者たちは、いままで戦った誰よりも立派だった」
                 シッティングブル・ブル酋長
.「激しい戦いだった。最初から最後まで、まったく激しかった。私は何度も激しい戦いに参加したがあんな勇敢な男たちを見たことが無い」
                 ブレーブ・ウルフ酋長


カスターとともに死んだカスターの身内たち

ボストン・カスター「弟」
22歳のボストンは病気がちで、戸外の生活で体の鍛錬をする必要もあったので、軍属で食料調達隊長として、この遠征に参加した。
トーマス・カスター大尉「弟」
南北戦争で2度の名誉勲章を受賞した。この戦いではC中隊を指揮し、兄のそばで死んだ
ヘンリー・A・リード「甥」
カスターのお気に入りの甥で、不運の叔父の客として同行。18歳だった。
ジェームス・カルフーン大尉「義弟」
L中隊を指揮彼はカスターの最後の位置から数百メートル離れた丘の上で死んだ

戦いが終わって

この燕尾型をした騎兵隊旗はリトル・ビッグホーンの戦いで使われたものだが、いったん失われたこの旗は、戦闘の11週間後スリム・ビューツで取り戻された。 カスターの大隊の唯一の生き残りは、マイルズ・キョー大尉愛用の虚勢馬コマンチだった。この戦闘で重症を負ったコマンチは手当てのかいあり健康になり、乗馬に使われること無く、1891年に28歳で死んだ。この馬がカスターの馬ということにして話が進むランドルフ・スコットの「第七騎兵隊」がある。

第7騎兵隊の復讐

マイルズ将軍は1890年2月第7騎兵隊にビッグフット酋長逮捕の命令を出す。しかし逮捕は形だけのもので、第7騎兵隊はビッグフット酋長一族をウンデッド・ニーに集める。そして周りには大砲をが何門も据えられていた。夕刻からは兵士たちは酒を飲んでいた。早朝緊張のために撃たれた一発の弾丸から無差別の攻撃が始まり女、子供を含め全員が殺される153名一説には300人以上。真冬に何日か置かれた死体は全員凍っており1体2ドルでアルバイトたちによって埋められた。左のビッグフット酋長もアルバイトによって2ドルで穴に放り込まれたのであります。

こうしてスー族シャイアン族平原インディアンの戦いは終わり1891年1月レッド・クラウドが正式降伏

「私が今まで会ってきたインディアンで一番よいインディアンとは死んだインディアンだ」     フィリップ・シェリダン将軍

  主な関係映画
壮烈第七騎兵隊(1941)エロール・フリン
平原児(1936)ゲーリー・クーパー
カスター将軍(1968)ロバート・ショー
小さな巨人(1970)ダスティン・ホフマン                                                          参考
                                                            アメリカ・インディアン「創元社」
                                                                              アメリカ・インディアンの歴史「雄山閣」富田寅男著
                                                                              大西部物語「ソルジャー」タイム・ライフ・ブックス